
寛永三年久万山惣百姓中目安ヲ以訴
寛永3年(1626年)2月、久万山の村人たちは、重い年貢と圧政に困り果て、現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町大川にある堂山大権現に祈り、愁訴を決意した。そして、久万山のすべての百姓が署名した嘆願書を伊予松山藩主・加藤嘉明公に提出し、その願いは遂に成就した。
江戸時代の初め、愛媛県の松山市を『松山』と名付け、松山城を築き、町並みを住みやすく整え、さらに石手川の氾濫を防ぐために川の流れを改善する工事を行った立派なお殿様がいました。
そのお殿様の家来の一人が、現在の上浮穴郡久万高原町地域の村づくりを任されていましたが、そのやり方があまりにもひどかったため、久万高原町大川と日野浦の、かつて武士だった二人が代表となり、村の人々をまとめて立ち上がり、ついにその家来を追い出しました。
しかし、実はこの二人は、かつて武士としてこの家来とともに大坂夏の陣で戦い、激しい戦の最中にその家来の命を救った戦場での壮絶な過去があったのです――そんなお話です。

久万高原町大川上組小田道地蔵菩薩の上の岩の頂から撮影
正面奥には石鎚山の山並み
現在の大川は麓までスギやヒノキが植林されていますが、かつては山並み全体に田畑が広がっていました。
今から400年前の江戸時代の初め、久万高原町を統治していたのは佃十成(つくだかずなり)という戦国武将です。
佃は、伊予松山藩主・加藤嘉明の筆頭家老として、久万山地方の知行(領地の支配と収益権)を任されていました。
しかし、高い年貢を課すだけでなく、大川村、西明神村、菅生村、畑野川村にある自身の所有地で久万山の村人を強制労働させるなど、苛烈な統治を行っていました。
さらに、久万山の百姓を毎日松山の広大な屋敷に呼びつけて酷使し、久万山領民の生活を犠牲にして築いたその屋敷は「さても見事な治郎兵衛(佃十成)の屋形、四方白壁八棟造り、阿波にござらぬ讃岐に見えぬ、まして土佐には及びはないぞ、伊予に一つの花の家」と称されるほどの立派さでした。
それらの結果、久万山地域は深刻な困窮状態に陥りました。
こうした圧政に苦しむ中、寛永3年(1626年2月)、加藤に佃の追放を求めて立ち上がったのは、、徳川と豊臣の最後の決戦・大坂夏の陣で佃十成の軍勢に参戦し、数々の武功を立てた大川村と日野浦村の元武士二人でした。
さらに、この二人には佃をどうしても許せない、「生死を分けた戦場で交わされた決死の約束」が裏切られた過去がありました。
それは、慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、久万山からは大川村の土居三郎右衛門と日野浦村の船草次郎右衛門が、佃の軍勢に従軍しました。
佃は長柄川から退く際、大坂勢に追撃されて川に落ち、命が危ぶまれました。
その時、土居と船草は決死の覚悟で追手を鉄砲で撃ち、また槍を合わせて数名を打ち取り、舟を回して沈んだ佃を救い、しんがり(退却時に最後尾で敵を防ぐ役目)を務めて事なきを得ました。この他にも多くの勲功を立て、佃も感激し、「帰国の上は必ずこれに報いるであろう」と約束しました。
ところが戦いも終わり帰陣してからは、何の対応もなく、ただ時が過ぎるばかりでした。
戦の勲功が評価される時代において、佃の圧政への不満と共に、この違約への反発が高まり、佃排斥運動を引き起こした一因となったと考えられます。
事態の収拾を図るため、加藤は佃の息子を後継とする案を示しましたが、土居と船草はこれも拒否しました。
さらに翌年の1627年には、加藤と佃の双方に福島県への転封が命じられ、佃による久万山支配もここに終焉を迎えました。
訴えが年貢の軽減や免除、圧政の改善ではなく、強い支配権を持つ領主そのものの排斥を求め、相応の危険を伴う愁訴によってそれを実現させたというのは、本当に驚くべきことだと思います。
「私は松山城下の堀之内を通るたび、圧倒的な威圧感を放つ『松山城と松山藩役所の二之丸御殿』に愁訴に挑んだ二人を思い浮かべ、身が引き締まるとともに、その偉大さに敬服します。」
この記事では、大川に伝わる直訴伝説と、それにまつわる愁訴と権現信仰、そして史実が交錯する物語をひも解きます。
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加藤嘉明に直訴:伝説よりもすごい400年前の真相【久万高原町大川】

物語の地 久万高原町大川の静かな風景、歴史と共に息づく風情

雪景色、悠久の時を刻む静寂
愛媛県上浮穴郡久万高原町大川地区には、愁訴をきっかけに生まれた権現様の伝説が語り継がれてきました。
伝説に登場する権現様をお祀りしている場所は大川地区に三か所あります。
一つは、上浮穴郡久万高原町の大川嶺、狼ヶ城、美川峰に連なる雨乞いの森の岩肌の窪み(標高1.440m)にある聖地です。この地は山道がなく、急傾斜地のため、山歩きの経験がない方には危険な場所です。

大川中心地からみた狼ヶ城(城が森)

〇の位置に聖地があります。
聖地の祠(ほこら)奥の院
以前は木製の祠があったそうですが、老朽化して朽ちてしまったため、長く残るように近年、石板で作り替えられました。
大川上組の石工が作った四角い平らな石を組み立て式にし、堂山権現を信仰する氏子たちがそれぞれ一枚ずつ運んで組み立てたそうです。
また、いつの時代のものか分からない古い賽銭が風化し、薄く小さくなっていました。

堂山大権現の聖地(奥之院)
次に、聖地から標高差約500mほど下った山中に位置する、標高915mの岩山の頂にある社(やしろ)です。
この社からは、山並みに遮られて聖地を目視することはできません。
また、聖地は冬季になると深い積雪に覆われ、訪れることが困難になります。そのため、この地に社が設けられたのではないかと推測されます。
この社は近くまで道路が整備されているので、気軽に訪れることができます。

聖地から標高約500mほど下った山中にある岩山頂の堂山大権現
そして三社目は、村の中心地に位置するハ柱神社の境内です。

円の位置が久万高原町大川八柱神社

ハ柱神社境内にある堂山大権現の総祈願所(堂山鎮守社 星の宮 権現宮 御山権現)

久万高原町大川の堂山権鎮守社左に並ぶ八柱神社
権現様の名前は「堂山大権現」(どうやまだいごんげん)といいますが、地域では堂山さんと呼ばれて親しまれています。
大川に語り継がれる伝説は「堂山大権現伝説」と呼ばれ、年代的には江戸時代初期のお話です。

大川の中心地から見た正面の山が狼ヶ城(城ヶ森)
伝説は代々語り継がれてきたそうで、村の長老は昔、話し上手な「○○の、ござおいさん」からその話を聞いたと語っていました。村にはそのような語り部がいたそうです。

堂山権現の聖地から望む久万高原町の町並み、向こうに三坂峠、松山市が広がる
私は大川出身で松山市在住ですが、堂山大権現伝説を地元の人から聞いた記憶は、幼いころにあったような、なかったような程度で、正確には「美川村二十年誌」でその存在を知りました。その内容は、いわゆるおとぎ話のように思っていました。
ところが、千葉大学「人文研究」松山藩久万山大庄屋文書の調査報告と史料紹介から「浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記」という由緒書に出会い、その内容に興味を持ちました。ただ、その文章は非常に難解で、最初は何が書かれているのかよく分かりませんでした。その中でも、寛永三年寅春(かんえいさんねんいんのはる)」という元号を使った表現は、音の響きが良く、記憶に残っていました。
その後、偶然インターネットで久万高原町の歴史を見ていると、久万山事件の年代が寛永三年と記載され、その出来事に大川の人物が関わっていることを知りました。「もしかして…」と思い、「美川村二十年誌」の伝説を改めて確認すると、伝説の年代と久万山事件の年代が一致していることに気がつきました。
久万山事件は、伝説をはるかに超える内容で、その発見に強く心を動かされ、ブログ記事としてまとめることにしました。

平成24年8月(2012年)大川八柱神社に「浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記」の石碑が突如建立
このブログでは、堂山権現の由来、そして伝説と史実が織りなす物語を紐解き、その魅力をお伝えします。久万高原町の文化に興味がある方にも楽しんでいただける内容です。
伝説と史実、碑文が交錯する不思議な物語。
久万高原町大川に伝わる史実を覆い隠した【堂山大権現伝説】
※美川村二十年誌から引用(イメージイラストは後から追加したものです)
狼ヶ城の麓に「堂山さん」と呼ばれている権現さんがあります。別の名を御山大権現ともいっています。
承応三年(一六五四)に建立されたもので、水の神・五穀の神として信仰され、ひでりが続けば雨乞いを、雨が降り続けば日和乞いを、部落民総出で堂山大権現に祈り続けたものです。
寛永三年(一二八六)大川嶺に十一月の初めから雪が降り出し、一月、二月は毎日のように雪が降り、その深さ一丈(3.3メートル)にもなり、四月になっても堂山川・木地川の水は、ぬるみませんでした。それで稲のもみを蒔くことができず、六月になってようやく稲を蒔いたが、その年の収穫は皆無の状態でした。
しかし、城下からの年貢のさいそくは厳しく、年貢が納まらねば城下に来て働けといいます。働きに行くにも金も米もないので行くこともできません。困り果てた農民達は城下に出て、殿様に直訴することになりました。
農民代表一〇名が城下に出て、殿様が参勤交代で帰城するところを待ちうけて直訴しましたが、直訴は認められず、牢に入れられ打ち首になることに決まりました。
この農民を犬死させてはならない、何とかいい方法はないものかと庄屋に相談して、水の神、百姓の神の堂山大権現様に救済のお祈りをしようということになりました。近在の庄屋達もこれに参加して三日三晩祈願を続けたのです。
すると明日打ち首となる前夜、殿様の枕もとに堂山大権現が現われ、直訴した農民の首を打ってはならない、直ちに村に帰って農業に精を出すように申し渡せ、さもなければ、松山藩は、ききんが来て世情が乱れるであろう、それだけではない。幕府より藩とりつぶしの達しがあるであろう、というお告げがありました。
おびえた殿様は、翌朝いそいで農民の直訴を認め、堂山大権現への献上物を託して村に帰らせました。
その後村人達は、堂山を百姓の神とあがめ毎年五月二八日にお祭りをして、その年の五穀豊穣を祈るようになりました。
※伝説で承応3年(1654年)に建立されたとされるのは惣川内神社(現・八柱神社)の境内への建立で、土居三郎右衛門(1597~1655)が建立にかかわっていたと考えられます。
※堂山大権現伝説は『美川村二十年誌』を出典としていますが、「寛永三年(一二八六)大川嶺に十一月の初めから雪が降り出し」という記述には、西暦表示の誤りがあります。
正確には1626年が正しい西暦ですが、原文を尊重し、そのまま掲載しています。また、この伝説はデータベース『えひめの記憶』にも掲載されていますが、こちらにも同様の誤った西暦が記載されていました。
西暦の誤りについては、寛永三年という言い伝えが先行し、『美川村二十年誌』発刊時に単純な西暦変換の誤りが生じたと考えられます。
伝説では寛永三年という年代が強く印象付けられており、この約400年にわたる言い伝えが、そのまま正確に寛永三年を継承されてきたのでしょう。
神社の氏子総代も務めた村の長老が伝説しか知らず、史実については聞いたことがないと言っていますが、それは史実に関する情報に触れる機会がなかった可能性も考えられます。さらに、現在大川地域に住んでいる地域運営の現役世代の人たちも知らなかったそうです。
浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記(大川村権現伝聞記)
大川の八柱神社には、道路からすぐに見える場所に『浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記』という大きな石碑が建っています。
明治の神仏分離令以前、この神社は「総河内八社大明神(そうこううち)」と呼ばれていました。
その本殿の西側には堂山大権現の社があり、そこに石碑が設置されています。
さらに、長い神社の歴史の中で、それまで存在しなかった石碑が、平成の時代になって突然建立されたのです。
しかも、地元の方に聞いても、碑文の意味を知る人はおらず、「分からない」「知らない」とのことでした。

浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記(堂山大権現伝聞記)
年月未詳 大川村権現伝聞記
浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記
むかし此郷の狩人奥山にて鹿を見付、城ヶ森まて追ふに異形に見へ忽見へす、夫より雨乞か森に烏騒けるを不審におもひ彼山に登れは岩石の前に水溜り有、立寄て見れは珠のことくなる石に風調雨順民康の六字を現んす、
時昔宮人の入玉ふ御山と聞、其故やらんと思ひ軒口やすみねむりけるに夫婦の老翁来て告云く、我は此山の主し也、必心穢の輩入事なけれ、我を信するものはなかく堂の森に来たりて石上の六字を祈らは無実の難を数ひ幸を得さしめんと云、
畢りて岩石へ登ると見れは夢覚たり、是こそ神託なりと思ひ伏しをがみ歓喜して此郷に帰、彼森にほこらを建、奉称堂山大権現と、日ゝに参籠して国家の幸を祈る、
此子孫石見と云ふ、神子かろうと口に住みて、毎月一七日之参籠して祈念し不思議たりしとなり此神子慶長の比卒す、
戊辰両歳七月七日廟所かろうと口にて、村中寄集して供養有る、又宗泉寺の表に弁天と称し惣川内(そうこううち)の神主祭之、
然るに寛永三寅春群中至て及困窮に、此社に祈誓して人民松府に出て愁訴を成す、直に戴君恩郡中潤色にうつり、
依之此郷の氏神惣川内の社内に御神殿を移し、惣祈願所とさだめ、其後益諸の願をかけ其しるしあらすとゆふ事なし、
此餘は神慮を恐れ秘する物也、必うたかふ事なかれ
なぜ突如として『浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記』が現代に現れたのか?
この碑文の内容は、近年、平成24年8月(2012年)に碑石が建立されるまで公開されていませんでした。石碑の建立に立ち会った方によると、特に説明はなかったそうで、堂山権現の由来が書かれている程度の理解だったとのことです。
この由緒書は、状況や背景を「読み手が既に知っている」ことを前提に書かれており、ストーリー全体を知らない場合、因果関係や詳細な意味を理解するのが難しい構成になっています。
直訴とは、正式な手続きを経ずに直接訴え出ることを指し、時には幕府や藩の禁令に背く行為とみなされ、処罰されることもありました。
愁訴とは、正式な手続きを踏んで嘆願書(目安)を提出し、上役や藩主に訴えを届けることを指します。
「浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記」に史実や物語を補足し、さらに執筆当時は藩政への配慮から記せなかった内容も加えて、現代標準語に訳しました。
昔(現代から約1400年前の飛鳥時代)、この村の狩人が城ヶ森(狼ヶ城)まで鹿を追いかけていると、姿が変わり、突然消えてしまいました。

城ヶ森(狼ヶ城)
その後、雨乞いの森でカラスが騒いでいるのを不思議に思い、森に登ると、岩の前に小さな水たまりがあり、立ち寄ってみると、水の中の丸い石に「風調雨順民康」という六字が現れました。
「昔、宮中の身分の高い方が入られた神聖な山だと聞いている、そのためだ」と思いました。
疲れ果てた狩人が岩の軒下で休んでいると、夢の中に老夫婦が現れ、「我らはこの山の主である。けがれた心の者はこの山に入ってはならぬ。我らを信じる者は堂の森に来て『風調雨順民康』と祈れば、理不尽な災難に遭っている人々に幸運がもたらされるであろう。」と告げました。
老夫婦の話が終わると、狩人は岩に登って景色を見渡したところ、まるで目が覚めたかのように現実に戻ったことに気づきました。狩人はこれを神のお告げと信じ、この森に祠を建て、堂山大権現として祀り、国の安泰と村人の幸せを祈りました。
その後、狩人の信仰は、代々その子孫によって受け継がれました。狩人の子孫は「石見、いわみ」と呼ばれ、神子として「かろうと口」に住み、毎月17日に神殿にこもって祈りを捧げ続けたところ、不思議な出来事がたびたび起こりました。
神子は慶長年間(1596年~1615年)に亡くなりました。
その後、村人たちは、支配者による酷い圧政がもたらす不穏な空気を肌で感じ取り、戊辰両歳(ぼしんりょうさい、1628年以前の年)の7月7日に神子を祀る廟所(びょうしょ)の「かろうと口」に集まり、供養を行い、村の平穏を祈りました。
また、宗泉寺の前には弁天(弁財天)が祀られ、惣川内(そうこううち)の神主がその祭祀(さいし)を行い、事態の終息を祈っていました。
それにもかかわらず、寛永三年寅春(かんえい3ねんいんのはる1626年)、村は祈りの甲斐もなく、さらに深刻な困窮に直面しました。この困難の原因は、佃十成(つくだかずなり)による久万山支配の過酷な統治に他なりませんでした。
神子の供養や弁天祭祀だけでは、このような深刻な問題を解決することができませんでした。
そこで、村人たちは一丸となり、久万山地域のすべての百姓が連名で嘆願書(目安)を差し出し、問題の解決を藩主に訴えることにしました。
代表者たちは、まず堂山大権現に祈りを捧げ、誓いを立てました。
その後、松山に赴き、主君である加藤嘉明公(63才)に正式な手続きを経て愁訴を申し立てました。
その結果、嘉明公の恩(慈悲と思いやり)によって村の困難は解決され、村人たちは平穏を取り戻しました。
なお、愁訴を行ったのは、大坂夏の陣に18歳で参戦した元武士、大川村の土居三郎右衛門尉(土居方純、1597~1655年)で、愁訴当時は29歳、村を代表する立場にありました。その強い祈りと行動が功を奏し、堂山大権現の御加護を受けた村は平穏を取り戻し、人々はようやく安堵の息をつきました。
この出来事を受けて、堂山権現は1654年、惣川内神社に移され、総祈願所として祀られることになりました。その後、多くの願いをかけ、そのすべてに効果が現れたと言われています。
このことは神のご意思を恐れて秘めていたもので、決して疑ってはなりません。
※「風調雨順民康」(ふうちょう うじゅん みんこう)とは、風が適切に吹き、雨が適切に降り、人々が健康で平和に暮らしているという理想的な状態を表しています。ちなみに、この地域の人々は「風調雨順民康」という祈りの言葉自体を知らなかったそうです。
※「昔」とは約1400年前の飛鳥時代を指します。権現社の再建が701年と記録されていることから、創建はそれ以前と推測されます。なお、701年は大宝寺の創建年でもあり、両社には関連が見られます。
『堂山権現由記』に記された「寛永三寅春、群中至て及困窮に、此社へ祈誓して人民松府に出て愁訴を成す」の背景について
久万山事件に見る土居と船草の忠義と戦国武将加藤嘉明(かとうよしあき)の決断
大川村が困窮に陥った原因には、江戸時代初期に久万山を治めていた佃十成(つくだかずなり)という人物の存在があります。
寛永三年(1626年)、大川村の土居三郎右衛門(どい さぶろうえもん、1597~1655年)と日野浦村の船草次郎右衛門(ふなくさ じろうえもん)を代表として立て、佃の厳しい支配を嘉明に訴え、排斥を求める事となりました。
訴えの理由は、過酷な年貢の徴収と、久万山の百姓たちへのひどい扱いでした。
しかし、それだけではありません。
もう一つ、決して見過ごすことも、許すこともできない、大きな理由が隠されていたのです・・・。
佃十戌の排斥運動が堂山大権現伝説に隠された史実
※久万高原町 旧町村誌アーカイブから出典
加藤嘉明治下の久万山は、佃十戌の知行所であったが、佃の圧政は厳しいものであったようです。
寛永3年(1626)2月、久万山の庄屋たちは、大川村の土居三郎右衛門、日野浦村の船草次郎右衛門を代表として、加藤嘉明に対し、じきじきに難渋の様子を訴え、支配者の更迭を願い出ました。
その理由は、佃十戌が西明神村、菅生村、畑野川村、大川村などで自分の所有地で村人を強制的に働かせ、百姓を苛酷に扱い財を得ていたこと、さらに松山の広大な屋敷には毎日百姓を呼び寄せて働かせ、年貢も特に重かったことが挙げられています。
特に中屋敷、下屋敷は、花や庭木が美しく配されており、民衆の間では「さても見事な治郎兵衛(佃十成)の屋形、四方白壁八棟造り、阿波にござらぬ讃岐に見えぬ、まして土佐には及びはないぞ、伊予に一つの花の家」と称されるほどの立派さでした。
この代表2名の庄屋には、佃十戌に対して特に不満があったようです。それは次のようなことが背景にあります。
それは、慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、佃の軍勢に、久万山からは大川村の土居三郎右衛門と日野浦村の船草次郎右衛門が従軍しました。
佃は長柄川から退く際、大坂勢に追撃されて川に落ち、命が危ぶまれました。
その時、土居と船草は決死の覚悟で追手を鉄砲で撃ち、また槍を合わせて数名を打ち取り、舟を回して沈んだ佃を救い、しんがりを務めて事なきを得ました。この他にも多くの勲功を立て、佃も感激し、「帰国の上は必ずこれに報いるであろう」と約束しました。
ところが戦いも終わり帰陣してからは、一向に何の沙汰もありませんでした。この違約に対する不満が、この運動を引き起こしたと思われます。
その結果、佃の所領は取り上げられ、その子・三郎兵衛が知行を相続することとなりました。
土居と船草はこれも反対、家老堀王水・足立新助の両名から、このことを含んで悪政を行わせないという証文をもらい、ようやく引き下がりました。
この出来事から1年後、加藤嘉明は福島会津40万石に転封となり、佃家もともに立退きました。佃氏の久万山支配は、寛永4年(1627)をもって終わりを迎えました。
佃十戌は加藤嘉明の老臣で、「予陽郡郷佳諺集」によれば、関ヶ原の戦いで嘉明が出陣して留守中、毛利の大軍に急襲され、松前城を守って勇戦した結果、風車の海に追い詰めました。さらに、毛利軍を援助した和気郡の一揆を鎮定するなど、大功を立てました。
また、松山城から城下町の町割りまで主君を助けて大いに働いた人物であり、慶長5年(1600)には加藤嘉明から久万山6000石(実際は7.200石)を与えられ、寛永4年まで久万山を支配しました。
土居家文書に記された目録 【寛永三年ニ久万山惣百姓中目安ヲ以訴】
【寛永三年ニ久万山惣百姓中目安ヲ以訴】かんえいさんねんに くまやまそうひゃくしょうちゅう めやすをもってうったえる
寛永3年(西暦1626年)、久万山地域のすべての百姓が連名で嘆願書(目安)を作成し、それを通じて訴えを起こしました。この愁訴には、地域の代表として土居三郎右衛門と船草次郎右衛門が加わり、訴えの中心的な役割を担ったとされています。江戸時代初期であり、地方の百姓が権力者や領主に対して訴えを起こすことは極めて稀かつ危険な行動でした。
こうした訴えを成し遂げるためには、百姓たちの団結はもちろん、土居や船草らが藩関係者や協力者と周到に計画を練り、取り巻きを固めるなどの入念な準備が必要だったと考えられます。
権現伝説にあるように「幕府より藩とりつぶしの達しがあるであろう」に相当するような、幕府の藩政運営に違反する行為を告発する訴えがされたのではないでしょうか。
江戸時代初期はまだ統治体制が整っていない部分がありましたが、百姓が集団で訴えを起こすことは重大な行動であり、場合によっては処罰を受けるリスクがありました。そのため、こうした行為は領主の統治に対する相当な不満があったことを示しています。
久万山支配と佃十成の圧政
大坂夏の陣が終わり、徳川家が天下を治め、加藤嘉明が松山藩主となると、久万山(現在の久万高原町)の統治は、嘉明の家臣である佃十成に任されました。しかし、佃十成の統治は苛烈を極め、村人たちは重い年貢や厳しい支配に苦しむこととなります。一方で、土居三郎右衛門や船草次郎右衛門は、戦乱後に武士としての地位を失い、久万山の村人(庄屋)として暮らすようになりました。しかし彼らは、かつての忠義の心を失わず、村人たちのために立ち上がることになります。
飛鳥時代から約1400年の時を越えて祈りが続く、美川峰雨乞か森『堂山大権現』の聖地
神霊地、堂山権現の祠へ通じる道はありません。柳谷美川線の電子基準点『美川』から尾根筋を越え、久万町内から松山方面が見える北側斜面をクマザサとミツバツツジの中を下ります。
さらにブナ林が広がる谷筋を進むと、石灰岩がそびえ立つ夫婦岩の下方にたどり着きます。シカやイノシシの獣道はありますが、人の歩く道は無くクマザサを押し分けて進みます。
現地は、しずくが絶えず岩肌をつたう谷筋の横、軒のひさしのように窪んだ岩肌の中に、祠がひっそりと隠れるように佇んでいます。
(美川峰から西の山並みの北側に清水の流れる岩肌の中間)
昔は木造の祠があったそうですが、朽ち果てて現在は石板で組み立てられた30cm角位の組み立て式の小さな祠で祀っています。
中間地点の堂山大権現の社
社伝によると、大宝元年(701年)8月に再建されました。また、御山(おんやま)権現として、菅生山大宝寺の神護を謹行し、国司散位小千宿弥玉興公が奉行したことが記された棟札があると神社由緒にあります。
つまり、御山権現という神様を祀るために、菅生山大宝寺がその神様をしっかり守る儀式を行っていました。そして、国司(こくし)という役職にあった小千宿弥玉興公(おちのすくねたまおきこう)という人物が、その儀式を取り仕切っていました。
国司とは、昔の日本で地方の国を治める役人のことで、現代でいう県知事のような役割を担っていました。
大宝寺は、元天台宗で、現在は真言宗に属している仏教寺院です。 仏教寺院が「神道の神を守る儀式(神護を謹行)」を行うことは一般的ではなく、堂山大権現は、仏教的な性格を持つ神霊を祀っていた可能性が高いです。
大宝寺の本尊が十一面観世音菩薩であるため、堂山大権現がこの仏の権現として祀られた可能性があります。特に天台宗では、観音菩薩を神として祀るケースが多く、「観音権現」として信仰された例もあります。
堂山大権現が神道の神であるならば、通常は神社が主導して祭祀を行うため、寺院が主導することは考えにくいです。そのため、堂山大権現は神道神ではなく、十一面観世音菩薩を権現として祀ったものと考えるのが自然でしょう。
また、堂山大権現の聖地が【奥之院】と呼ばれていることからも、仏教との関係が深いことに留意させていただきます。
このことから、堂山大権現の神霊は【十一面観世音菩薩】の権現であり、仏教的な性格を持っていた可能性が高いと考えられます。
さらに、大川の宗泉寺は、かつて真言宗でしたが、現在は臨済宗東福寺派に属し、本尊として十一面観世音菩薩を祀っています。
【小千宿弥玉興とは】
「小千宿弥玉興」は、聖武天皇の時代に活動していた国司であり、伊予国(現在の愛媛県)において重要な役割を果たしました。
具体的には、神亀5年(728年)に、聖武天皇の命令を受けて、大三島大明神を伊予の九四(くし)郷(ごう)の各地に勧請(神様を招くこと)した人物として記録されています。
「堂山鎮守社は、星の宮または権現宮とも呼ばれています」という社伝の意味は、堂山鎮守社が異なる名称で知られていることを示しています。具体的には、次のように解釈できます。
星の宮
「星の宮」という呼称は、星に関連する信仰や神を祀っていることを示唆します。星は古来より神秘的な力を持つものとされ、農業や航海、個人の運命などに影響を与えると信じられていました。したがって、「星の宮」と呼ばれることで、この神社が星に関する神を祀っている可能性が示唆されます。
権現宮
「権現宮」という呼称は、特定の権現(神仏習合における神の化身)が祀られていることを示します。
権現信仰は日本の宗教文化において重要な位置を占めており、神仏習合の象徴でもあります。「権現宮」と呼ばれることで、堂山鎮守社が特定の権現を祀る場所としても知られていることがわかります。
このように、「星の宮」と「権現宮」は、堂山鎮守社が多面的な信仰を担い、異なる神格を祀る場として認識されていることを示しています。
この社伝は、堂山鎮守社が地域において多くの役割や意味を持っていることを伝えているのです。
現在の八柱神社境内の堂山大権現【堂山鎮守社】
八柱神社(旧総河内八社大明神)の境内にある堂山大権現社は、1654年に建立されたとされており、土居三郎右衛門(1597~1655)の時代に建立されたと考えられます。
その神霊については詳しく分かっていませんが、後述する祈りの言葉の内容から推測するに、神道の枠組みに当てはまらない可能性があります。
浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記の執筆年代とその背景
愛媛県上浮穴郡久万高原町に伝わる「浮穴郡熊山堂山大権現由記」は、堂山大権現にまつわる歴史と伝承を伝える重要な記録です。この由記がいつ、誰によって書かれたのかは定かではありませんが、いくつかの推測を立てることができます。
執筆年代の推測
由記の内容が記録している事件や背景から、その執筆年代を1620~1650年代と推測できます。特に注目すべきは、久万山事件(1626年頃)土居三郎右衛門が佃十成の圧政に立ち向かった歴史的なエピソードです。由記がこれらの出来事を伝えるために記されたとすれば、事件の直後、あるいは堂山大権現が八柱神社内に建立した時期に執筆された可能性が高いでしょう。
執筆者について
この記録を書き残した人物についても考察が必要です。
- 土居三郎右衛門本人
土居三郎右衛門は、佃十成の圧政に対抗するために命を懸けた人物として知られています。その行動を後世に伝えるため、本人が自ら筆を執った可能性もあります。もし本人が執筆したのであれば、由記は非常に貴重な一次資料であり、彼の信仰心や正義感を直接知る手がかりとなるでしょう。 - 三郎衛門の関係者
一方、土居三郎右衛門の家族や部下、または地元の有力者が彼の行動を後世に伝えるために記録をまとめた可能性もあります。この場合、三郎衛門の信仰や正義感が美化され、堂山大権現の伝承が地域全体に広がるきっかけとなったかもしれません。
伝説と記録の違い
「浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記」は、事実に基づいた詳細な記録としての性質を持つ可能性が高い一方、「堂山大権現伝説」は地域の口承や信仰が付け加わり、物語として再構成されていると考えられます。後者は、時代が下るにつれ追加された要素や修正が含まれている可能性があります。
「由記」と「伝説」は異なる性質を持ち、前者は歴史的な記録、後者は信仰や物語としての広がりを示している点に注目すべきです。
「浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記」は、庄屋間で貸し借りがあった
(弘化二年)一〇月一五日
土居家文書借用願 覚
一、柿源左衛門、林源太御両氏方之茶方之儀御沙汰書 壱通
一、承応四年御沙汰書 壱通
一、元绿十四年御沙汰書 壱通
一、堂山権現由来記 壱通
一、勝山公御入国以来御奉行御代官御名前付 壱通
一、延宝八申年庄屋持高江夫米相懸候=付御差免被下度願書控 壱通
(※他に借用書類が23通ありますが、以下は省略)
右之通写取申度二付借用申候、相済次第御返却可申候、 以上 巳十月十五日
土居五左衛門様
鵜原三蔵 梅木傳左衛門
土居三郎右衛門尉とは
土居三郎右衛門尉(本名:土居方純 どい まさずみ)は、江戸時代初期の人物で、伊予国浮穴郡大川村で庄屋を務め、地域の発展に尽力した伊予豪族・河野氏の支族である土居氏の一員です。彼は戦国時代から続く名家の歴史を受け継ぎ、地域社会において重要な役割を果たしました。
土居三郎右衛門の高祖父である土居伊賀守方玄(下野守)どい いがのかみ まさつね(しもつけのかみ)(1512年 - 1574年)は、河野氏の先鋭として小田山本川町村城を守り、長宗我部氏と戦いました。しかし、1574年、笹ケ峠の戦いで討死します。その後、方玄の子である土居方貞(まささだ)(土居弥九朗)は、叔父大野山城守直昌を盟主として長宗我部軍と戦いましたが、河野氏の滅亡後、浮穴郡大川村の地に隠棲し、帰農しました。
江戸時代に入ると、方貞の子であり土居三郎右衛門の父である土居方徳(まさのり)(土居源右衛門尉)は、松前城主・加藤嘉明の信任を得て、浮穴郡大川村、上黒岩村、有枝村の3か村の庄屋に加え、中黒岩村、下黒岩村、沢渡村、日野浦村、黒藤川、柳井川村、西谷村、九主村、𧃴川村の下坂地区十三ヶ村の総責任者を任されました。これにより、土居家は地域社会の中核を担う存在としてその地位を確立しました。
土居三郎右衛門は、父方徳の後を継いで浮穴郡大川村の庄屋を務めました。彼の活動は村の運営や発展に寄与し、地域住民からの信頼を得ました。この庄屋職は代々土居家で継承され、久万高原町における土居家の歴史において欠かせない存在となりました。土居三郎右衛門の功績は、長い歴史を持つ土居家が地域社会と深く結びつくきっかけを築き、現在もその名を語り継がれています。
伊賀守(いがのかみ)」や「下野守(しもつけのかみ)」は、土居方玄が武士としての地位や権威を示すために名乗った称号です。これらは実際の役職かどうかに関わらず、格式や威厳を表す呼称でした。また、土居三郎右衛門尉(どいさぶろうえもんのじょう)の「尉(じょう)」は、下級官職を指し、武士が家柄や地位を示すために用いる称号としても使われました。
江戸時代の人々には、複数の名前を持つことが一般的でした。これは、社会的地位や状況に応じて名前を使い分ける文化があったためです。
※記載されている人物名のフリガナは、当時の読み方を推測したものです。地域や時代により異なる可能性がありますので、正確な読み方についてはご了承ください。
まとめ
堂山権現の伝説は、400年前の久万高原町の村人たちの祈りと勇気に根ざしています。その背景には、戦国時代を生きた武士たちの壮絶な忠義と加藤嘉明の裁きがありました。この歴史を通じて、現代にも通じる人々の絆や信仰の力を感じていただければ幸いです。
佃十成公(1553年~1634年)の振る舞いは、時に厳しい批判を受けることもありますが、一方で彼の功績を見逃すことはできません。久万高原町や松山市内の寺社の改築や建立に尽力し、それらの寺社が今なお地域の誇りとして語り継がれていることは、佃十成公の深い信仰心と、地域社会への貢献の証といえるでしょう。
特に、彼が関わった寺社は、佃十成公のゆかりを示す記録を誇りとし、その歴史を現在も後世に伝えています。松山藩の武将として、時には苛烈な一面があったかもしれませんが、信仰の場を築き上げる努力とその成果は、地域の文化的遺産として高く評価されるべきです。
また、佃十成公は松山城の築城や城下町の町割りにおいても、主君である加藤嘉明を支え、大いに貢献しました。その功績により、松山の発展に不可欠な人物として、彼の影響は今も残っています。
佃十成公の生き方には矛盾も見え隠れしますが、その中に人間としての多面性と歴史的意義が込められているのではないでしょうか。彼の功績を知ることで、批判を超えたより深い理解を得ることができるはずです。
※このブログ記事は、歴史が得意ではない筆者によって書かれています。そのため、内容に誤りが含まれている可能性があります。何卒ご容赦ください。
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