加藤嘉明が築く松山城が完成へと近づいていたその頃――。
高知県境に近い山あいの村では「支配者の交代」を求めて、村人が立ち上がろうとしていました——。
松山城から望む山並みの向こう側に位置するその地は、かつての伊予松山藩の支配地であり、物語の舞台です。
松山城下から南東へ山並みを越えた先に、かつて「久万山(くまやま)」と呼ばれた山間地域があります。
現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町です。
江戸時代初め、この地域は伊予松山藩に属し、藩内で唯一「地方知行制(じかたちぎょうせい)」という特別な支配体制が敷かれていました。
これは、藩主の家来に藩内の一部地域を領地として与え、その地域から収益を得させる制度です。
松山藩の広い領地のなかで、この制度が導入されたのは、久万山地域に限られていました。
その久万山に住む百姓たちが、家来による厳しい支配の改善を求めて、奥山に鎮まる“祈りの地・堂山権現”の御前で決意を固め、命がけで藩主に久万山領主の交代を訴えた――そんな実話に基づくお話です。
この訴えの背後には、大坂夏の陣で命を救った恩義にまつわる、固い約束が交わされていたのです――しかし、その約束は……
松山城主・加藤嘉明に直訴した久万山の百姓たちの決死の訴え

伊予松山藩主加藤嘉明公築城の松山城
寛永三年(1626年)久万山の出来事(愛媛県上浮穴郡久万高原町の歴史)
『佃十成の排斥運動』と堂山権現
江戸時代の初め、伊予松山藩主・加藤嘉明公(かとうよしあき)は、「松山」と名付けて城を築き、町並みを整備し、石手川の氾濫対策にも取り組みました。
その加藤の家来の一人(かつての戦国武将・佃十成氏・つくだかずなり)が、現在の久万高原町地域の領地とその収益を治める支配者(地方知行)としての役目を与えられました。
しかし―― 佃のやり方はあまりにもひどく、村人たちは日々、苦しめられていたのです。
高い年貢を課すだけでなく、大川村 ・西明神村・菅生村・畑野川村の自身の所有地では、百姓を責め立て、強制的に働かせて財を築きました。
すでに泰平の世に入ったはずの江戸時代にもかかわらず、まるで戦国の乱世で敵地を奪い取った“ならず者の輩ども”のような、容赦なき振る舞いです。
さらに、久万山の百姓を毎日、松山城下の広大な屋敷に呼びつけ、過酷な労働をさせていたのです。
久万高原町から松山までは道のりで約40km、車のない当時、徒歩で向かうだけでも丸一日かかるような過酷な移動でした。
久万山領民を苦しめて築かれた佃の屋敷は、「四方白壁八棟造り、阿波にござらぬ、讃岐に見えぬ、まして土佐には及びはないぞ、伊予に一つの花の家」と、称されるほど、四季折々の花に囲まれた、広く立派な屋敷――さらに中屋敷・下屋敷も備え、贅の限りを尽くした贅沢三昧の暮らしを送っていたのです。
佃の過酷な支配によって、村人たちの暮らしは追い詰められていきました。
そこで、かつて戦場にて武功を挙げた、大川村の土居三郎右衛門(当時29歳)と日野浦村の船草次郎右衛門の二人が、久万山を救うために行動をおこしたのです。
二人は村人たちとともに立ち上がり、奥山にある堂山大権現に祈り、誓いを立てて、加藤嘉明(当時63歳)に久万山領主の交代を訴えました。

堂山大権現のある山並み、標高1400mに聖地があります。
当時の領民にとって、藩主への訴えは大きな決断であり、相当な覚悟と団結が求められたことでしょう。
加藤からの返事は、佃の息子を後継の領主とする案を示されましたが、二人はこれも拒否しました。
その後、仲介に立った加藤の家来・堀と足立の二人が「今後はこのようなひどいやり方をさせない」と約束し、ようやく二人は納得しました。
そして翌年の寛永四年(1627年)、加藤と佃はともに会津藩への国替えを命じられ、久万山を苦しめた佃による支配も、ここに終止符が打たれました。
さらに、次の藩主の蒲生忠知は久万山に地方知行制を採用しませんでした。
村人たちは、こうした一連の出来事を堂山大権現の御加護と受けとめ、奥山から分祠して、現在の八柱神社の境内に、堂山権現惣祈願所を祀るようになったのです。
ちなみに、土居三郎右衛門尉の父は、かつて加藤に見込まれて、大川、有枝、日野浦の庄屋職と下坂13か村の責任者になっていました。
そんな父から、三郎右衛門は「まず、堂山権現の御前で誓いを立て、しかる後に松府へ向かうがよかろう」と諭されたのではないでしょうか。
次は、佃・土居・船草の三人の過去に秘められた、まさかの“戦場での絆”の物語です。
「佃十成の排斥運動」が起きた背景には、もう一つの重大な理由がありました。
佃と土居、船草には、実はすごい過去があったのです。
――なんとこの三人、かつて徳川と豊臣の最後の決戦、大坂夏の陣で、同じ軍勢として戦った仲間でした。
そのとき、佃は指揮官として軍を率い、土居と船草はその配下として最前線で戦っていたのです。
命を懸けて共に戦ったその後、まさか藩政をめぐって対立することになるとは、誰が想像したでしょうか。
そして――あの戦のさなか、敵に追われて川に沈みかけた佃を救うため、土居と船草は決死の覚悟で鉄砲と槍を手に追手を討ち取り、舟を回して彼を救い出したのです。
まさに、命を預け合った戦友だったのです。
助けられた佃は、いたく感激し、「この恩、必ずや報いる」と二人に誓いました。
――それから幾年。
かつて戦場で「この恩は必ず返す」と誓った佃。
しかしその言葉は忘れ去られ、彼は久万山の村人たちを苦しめる冷酷な支配を進め、私腹を肥やしていったのです。
その裏切りに対する反発も、排斥運動の原因のひとつとなったようです。
2026年は、久万山が解放されてから、ちょうど400年の節目を迎えます。
約400年人目に触れなかった石碑文――領主・佃十成の交代を加藤嘉明に訴えた記録が沈黙を破る
愛媛県上浮穴郡久万高原町大川の八柱神社境内にある堂山鎮守社には、平成24年に建立された、大きな石碑があります。
この石碑には、当地土居家古文書に伝わる『堂山権現伝聞記』が刻まれており、その内容には、寛永三年(1626年)、伊予松山藩主への訴えが記されています。
この石碑文は、千葉大学文学部の先生方が土居家古文書を調査された際に書き起こされたものと思われます。
400年もの間、人目に触れることのなかった、村の運命を左右した重要な記録です。
残念ながら、「伝聞記」に関する解説はありません。
氏子総代を務めて石碑建立にも立ち会った長老に聞いても、碑文の意味は知らないとのことでした……‼️
――謎の碑文?
次は、堂山鎮守社にひっそりとたたずむ、謎の石碑に迫ります。
そこには、救いを求めた村人たちの“願い”と“平穏に戻った喜び”が記された物語が静かに刻まれていました――。
浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記(佃十成の排斥運動を暗に映したとされる伝聞記)
年月未詳 権現伝聞記
浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記
むかし此郷の狩人奥山にて鹿を見付、城ヶ森まて追ふに異形に見へ忽見へす、夫より雨乞か森に烏騒けるを不審におもひ彼山に登れは岩石の前に水溜り有、立寄て見れは珠のことくなる石に風調雨順民康の六字を現んす、
時昔宮人の入玉ふ御山と聞、其故やらんと思ひ軒口やすみねむりけるに夫婦の老翁来て告云く、我は此山の主し也、必心穢の輩入事なけれ、我を信するものはなかく堂の森に来たりて石上の六字を祈らは無実の難を救ひ幸を得さしめんと云、
畢りて岩石へ登ると見れは夢覚たり、是こそ神託なりと思ひ伏しをがみ歓喜して此郷に帰、彼森にほこらを建、奉称堂山大権現と、日ゝに参籠して国家の幸を祈る、
此子孫石見と云ふ、神子かろうと口に住みて、毎月一七日之参籠して祈念し不思議たりしとなり
此神子慶長の比卒す、
戊辰両歳七月七日廟所かろうと口にて、村中寄集して供養有る、又宗泉寺の表に弁天と称し惣川内(そうこううち)の神主祭之、
然るに寛永三寅春群中至て及困窮に、此社に祈誓して人民松府に出て愁訴を成す、直に戴君恩郡中潤色にうつり、
依之此郷の氏神惣川内の社内に御神殿を移し、惣祈願所とさだめ、其後益諸の願をかけ其しるしあらすとゆふ事なし、
此餘は神慮を恐れ秘する物也、必うたかふ事なかれ
浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記の現代語訳
石碑文の現代語訳(語訳に誤りあらば、ご容赦くださりませ)
昔、この村の狩人が城ヶ森(狼ヶ城)まで鹿を追いかけていると、姿が変わり、突然消えてしまいました。
その後、雨乞いの森(美川峰)でカラスが騒いでいるのを不思議に思い、森に登ると、岩の前に小さな水たまりがありました。
立ち寄ってみると、水の中の丸い石に「風調雨順民康」という六文字が現れました。
狩人は「昔、高貴な修行者の方が入られた山だと聞いている、そのためだ」と思いました。
疲れ果てた狩人が岩の軒下で休んでいると、夢の中に老夫婦が現れて、「我らはこの山の主である。けがれた心の“輩”は、この山に入ってはならぬ。
我らを信じる者は堂の森に来て『風調雨順民康』と祈れば、 身に覚えのない苦難に遭っている人々に幸せがもたらされるであろう。 」と告げました。
老夫婦の話が終わると、狩人は岩に登って景色を見渡したところ、まるで目が覚めたかのように現実に戻ったことに気づきました。
狩人はこれを神のお告げと信じ、深く頭を下げて拝み、喜んで村に帰りました。
その後、この森に祠を建て、堂山大権現として祀り、国の安泰と村人の幸せを祈りました。
狩人の子孫は石見(いわみ)と呼ばれ、神子として「かろうと口」に住み、毎月17日に堂にこもって祈りを捧げ続けたところ、霊験あらたかでした。
神子は約20年前の慶長年間に亡くなりました。
村中の人たちは、戊辰両歳(戊辰年より前の年)の7月7日、「かろうと口」に集まり、神子の霊を供養し、村の平穏を祈願しました。
また、宗泉寺の前には「弁天」と称する仮の名前を付けた祠が設けられ、惣川内神社(現在の八柱神社)の神主がその祭祀を行い、村の平穏を祈祷しました。
それなのに、寛永三年寅春(1626年2月)、村は深刻な困窮状態に陥りました。
そこで、堂山大権現に祈りを捧げ、誓いを立てた上で、松山に赴き、主君に愁訴(正式な手続きの訴え)を申し立てました。
その結果、主君の配慮により村中の暮らしが潤い、皆が安泰に暮らせるようになりました。
この出来事を受けて、堂山権現は惣川内神社に移され、総祈願所として祀られることになりました。
その後、多くの願いをかけ、そのすべてに効果が現れたと言われています。
このことは神のご意思を恐れて秘めていたもので、決して疑ってはなりません。
堂山権現伝聞記をひもとく――400年前の苦難と祈り、そして佃十成の排斥運動との接点
「伝聞記」では、鹿を追って奥山に入った狩人が、神の使いであるカラスに導かれ、奥山の岩窟へとたどり着きます。
そこで狩人は夢の中で、山の主として現れた年老いた夫婦に出会います。
年老いた夫婦とは、仲睦まじく、
老夫婦は「心穢れた輩」という言葉を残しています。
これは、“信仰心がなく利己的な者”や、“正義を欠いた為政者”を指す表現と考えられます。
その人物こそ、村人の暮らしを乱した佃十成ではないでしょうか。
実際、村人の苦しみを顧みず、自らの利権を優先した佃のふるまいは、「心が穢れた輩」という言葉と重なります。
ここで語られる“穢れ”は、宗教的な穢れではなく、「人としての清廉さ」や「道義の欠如」を意味しているように見えます。
山の主は「この聖地までもの支配は許さない」と声を上げたように感じられます。
また、「我を信ずる者は、幸を得さしめん」という言葉は、村人たちが願った「風調雨順・民康(平穏な暮らし)」の回復を象徴しているようです。
それは、佃の横暴によって失われた日常への、切実な願いだったのでしょう。
さらに注目すべきは、この批判が“神託”という形式で記された点です。
名指しを避けることで、権力によって封じられることなく、伝聞記が後世に残るよう工夫されたとも考えられます。
“心穢れた輩”という一語に込められた、当時の村人たちの苦悩と、静かな抗議の声――。
それこそが「伝聞記」の核心なのかもしれません。
伝聞記は、コピーをとるために他村の庄屋に貸し出された記録がありました。
「寛永三年ニ久万山惣百姓中目安ヲ以訴」と題された目録も残っています。
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次はついに――
「なぜ堂山権現なのか?」という最大の謎に迫ります。
考えるられる三つの理由を通して、村人たちの祈りの本当の意味が見えてくるかもしれません。
――さて、どうして堂山権現なのでしょうか?
「なぜ堂山権現なのか?」――村人たちの願いとは

堂山大権現の神霊地
神霊地への参拝は岩肌なのでとても危険です。
考えるられる三つの理由を通して、村人たちの祈りの本当の意味が見えてくるかもしれません。
――さて、どうして堂山権現なのでしょうか?
堂山権現が選ばれた理由は、主に三つあると考えられます。
1.久万山の神社や寺院等の祈りの場が佃によって支配されていたため
2.村人たちは、堂山権現に「慈悲」の教義を見出し、救いを求めた
3.堂山権現は、地域で最も古い別格の祈りの場だった(1400年前の飛鳥時代)
伝聞記に登場する村人たちは、窮地から逃れるために惣川内神社(現在の八柱神社)ではなく、狩人の子孫の墓に願いを託しています。
また、惣川内神社の神主は、地形的に神社を一望できる川向の宗泉寺の表に「弁天」と称した仮の祠を設け、その祠越しに惣川内神社の神殿に向かって祈っていたかのように読み取れます。
これは、佃が領主として神社や寺に寄進し、それらがすでに支配下にあったため、神主はその座を追われ、近づくことすらできなかったと推測されます。
地域の神仏や村人たちの心のより所に寄進を重ね、自らの加護と支配の安定を祈ったのです。
佃は久万山の神社や寺に寄進していた記録があり、八柱神社も例外ではなかったと考えられます。
領地支配を安定させるための統治戦略だったのでしょう。
そして同時に、村人たちが祈りを通じて不満や抵抗の意思を表すことを封じ、自分の存在感を強く印象づけようとしたのかもしれません。
寄進の内容は、金銭、社殿の建立や再建、石灯籠や鳥居、幟(のぼり)や奉納額など、視覚的にその力を誇示するようなものだったと想像されます。
当時の大川八柱神社には、佃が奉納した幟旗が立っていたのかもしれませんし、そもそも神社自体が強制的に閉鎖されていた可能性もあります。
形式上は村の神社であっても、実質的には佃の権威が及ぶ場に変わり、村人たちにとっては「お上の神社、支配者の神様」になったのでしょう。
「佃の息のかかった神社では、本当の願いは届かない」————村人たちは、そんな思いを抱いていたのかもしれません。
佃の権威の届かぬ奥山に鎮まる、菅生山大宝寺ゆかりの歴史ある堂山権現。
村人たちは、慈悲と正義を兼ね備えたその霊験あらたかな存在にこそ、願いを託し、誓いを立てたのでしょう。
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『堂山権現伝聞記』に刻まれた言葉のひとつひとつは、
久万山は戦国の気風を色濃く残す土地であり、
そのため、加藤や佃にとっても、
領主として秩序を保ち、治安を確保しようとする側の苦悩もまた、
その後、佃は加藤とともに国替えで会津へ移り、一万石の領地が与えられました。
形式上は出世したように見えますが、実際には、
久万山ではその強引な支配ぶりから村人たちに強く反発され、
佃は、国替えから8年後に会津で亡くなりましたが、
静かに表舞台から退いたその晩年には、武士としての誇りの裏に、
『伝聞記』に記された村人たちの行動や言葉からは、当時の人々も現代の私たちと変わらず、平穏な暮らしや家族の幸せを強く願っていたことが伝わってきます

久万高原町大川上組小田道地蔵菩薩の上の岩の頂から撮影
正面奥には石鎚山の山並み
現在の大川は民家近くまでスギやヒノキが植林されていますが、かつては山並み全体に田畑が広がっていました。

物語の地 久万高原町大川の静かな風景、歴史と共に息づく風情

雪景色、悠久の時を刻む静寂

大川中心地からみた狼ヶ城(城が森)

大川の中心地から見た正面の山が狼ヶ城(城ヶ森)

堂山権現の聖地から望む久万高原町の町並み、向こうに三坂峠を越えると松山が広がる
久万高原町大川の八柱神社境内にある堂山鎮守社(江戸時代の呼称は堂山権現惣祈願所)
愛媛県上浮穴郡久万高原町大川の八柱神社境内にある堂山鎮守社(江戸時代の呼称は堂山権現惣祈願所)では、修復工事が行われ、大工さんによって新しい柱へと入れ替えられました。(2025年)
先人たちが守り伝えてきたこの社に、機会があればぜひ訪れてみてください。
明治期の神仏分離令により、堂山権現は廃社の危機に直面したのではないでしょうか。
久万山(現在の久万高原町)では、明治の改革によって、藩の命令で堂が焼き払われたり、さまざまなデマが広まって、ついには暴動にまで発展したとも伝えられています。
そこで社名を「堂山鎮守社」と改め、仏教由来の「権現」という呼称を表に出さず、信仰を守り続けたものと推測します。
『美川村二十年誌』には「堂山大権現伝説」というタイトルで、寛永三年(1626年)の出来事をもとにしながらも、史実とは異なる伝承が語られています。
伝説のあらすじは――豪雪による不作で年貢を納められなかった久万山の村人が松山城の殿様、加藤嘉明に直訴し、打ち首を命じられたものの、堂山権現のご加護によって許され、土産を持たされて無事に帰村した――というもの。
八柱神社氏子総代を務めたことのある村の長老によれば、この伝説は、子どもの頃に話し上手な語り部からよく聞かされたものだそうです。
久万高原町大川に伝わる史実を覆い隠した【堂山大権現伝説】
※美川村二十年誌から引用(イメージイラストは後から追加したものです)
狼ヶ城の麓に「堂山さん」と呼ばれている権現さんがあります。別の名を御山大権現ともいっています。
承応三年(一六五四)に建立されたもので、水の神・五穀の神として信仰され、ひでりが続けば雨乞いを、雨が降り続けば日和乞いを、部落民総出で堂山大権現に祈り続けたものです。
寛永三年(一二八六)大川嶺に十一月の初めから雪が降り出し、一月、二月は毎日のように雪が降り、その深さ一丈(3.3メートル)にもなり、四月になっても堂山川・木地川の水は、ぬるみませんでした。それで稲のもみを蒔くことができず、六月になってようやく稲を蒔いたが、その年の収穫は皆無の状態でした。
しかし、城下からの年貢のさいそくは厳しく、年貢が納まらねば城下に来て働けといいます。働きに行くにも金も米もないので行くこともできません。困り果てた農民達は城下に出て、殿様に直訴することになりました。
農民代表一〇名が城下に出て、殿様が参勤交代で帰城するところを待ちうけて直訴しましたが、直訴は認められず、牢に入れられ打ち首になることに決まりました。
この農民を犬死させてはならない、何とかいい方法はないものかと庄屋に相談して、水の神、百姓の神の堂山大権現様に救済のお祈りをしようということになりました。近在の庄屋達もこれに参加して三日三晩祈願を続けたのです。
すると明日打ち首となる前夜、殿様の枕もとに堂山大権現が現われ、直訴した農民の首を打ってはならない、直ちに村に帰って農業に精を出すように申し渡せ、さもなければ、松山藩は、ききんが来て世情が乱れるであろう、それだけではない。幕府より藩とりつぶしの達しがあるであろう、というお告げがありました。
おびえた殿様は、翌朝いそいで農民の直訴を認め、堂山大権現への献上物を託して村に帰らせました。
その後村人達は、堂山を百姓の神とあがめ毎年五月二八日にお祭りをして、その年の五穀豊穣を祈るようになりました。
※伝説で承応3年(1654年)に建立されたとされるのは惣川内神社(現・八柱神社)の境内への建立で、土居三郎右衛門(1597~1655)が建立にかかわっていたと考えられます。
※堂山大権現伝説は『美川村二十年誌』を出典としていますが、「寛永三年(一二八六)大川嶺に十一月の初めから雪が降り出し」という記述には、西暦表示の誤りがあります。
正確には1626年が正しい西暦ですが、原文を尊重し、そのまま掲載しています。また、この伝説はデータベース『えひめの記憶』にも掲載されていますが、こちらにも同様の誤った西暦が記載されていました。
西暦の誤りについては、寛永三年という言い伝えが先行し、『美川村二十年誌』発刊時に単純な西暦変換の誤りが生じたと考えられます。
佃十戌の排斥運動
※久万高原町 旧町村誌アーカイブから出典
加藤嘉明治下の久万山は、佃十戌の知行所であったが、佃の圧政は厳しいものであったようです。
寛永3年(1626)2月、久万山の庄屋たちは、大川村の土居三郎右衛門、日野浦村の船草次郎右衛門を代表として、加藤嘉明に対し、じきじきに難渋の様子を訴え、支配者の更迭を願い出ました。
その理由は、佃十戌が西明神村、菅生村、畑野川村、大川村などで自分の所有地で村人を強制的に働かせ、百姓を苛酷に扱い財を得ていたこと、さらに松山の広大な屋敷には毎日百姓を呼び寄せて働かせ、年貢も特に重かったことが挙げられています。
特に中屋敷、下屋敷は、花や庭木が美しく配されており、民衆の間では「さても見事な治郎兵衛(佃十成)の屋形、四方白壁八棟造り、阿波にござらぬ讃岐に見えぬ、まして土佐には及びはないぞ、伊予に一つの花の家」と称されるほどの立派さでした。
この代表2名の庄屋には、佃十戌に対して特に不満があったようです。それは次のようなことが背景にあります。
それは、慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、佃の軍勢に、久万山からは大川村の土居三郎右衛門と日野浦村の船草次郎右衛門が従軍しました。
佃は長柄川から退く際、大坂勢に追撃されて川に落ち、命が危ぶまれました。
その時、土居と船草は決死の覚悟で追手を鉄砲で撃ち、また槍を合わせて数名を打ち取り、舟を回して沈んだ佃を救い、しんがりを務めて事なきを得ました。この他にも多くの勲功を立て、佃も感激し、「帰国の上は必ずこれに報いるであろう」と約束しました。
ところが戦いも終わり帰陣してからは、一向に何の沙汰もありませんでした。この違約に対する不満が、この運動を引き起こしたと思われます。
その結果、佃の所領は取り上げられ、その子・三郎兵衛が知行を相続することとなりました。
土居と船草はこれも反対、家老堀王水・足立新助の両名から、このことを含んで悪政を行わせないという証文をもらい、ようやく引き下がりました。
この出来事から1年後、加藤嘉明は福島会津40万石に転封となり、佃家もともに立退きました。佃氏の久万山支配は、寛永4年(1627)をもって終わりを迎えました。
佃十戌は加藤嘉明の老臣で、関ヶ原の戦いで嘉明が出陣して留守中、毛利の大軍に急襲され、松前城を守って勇戦した結果、風車の海に追い詰めました。さらに、毛利軍を援助した和気郡の一揆を鎮定するなど、大功を立てました。
古文書に記された目録 【寛永三年ニ久万山惣百姓中目安ヲ以訴】
【寛永三年ニ久万山惣百姓中目安ヲ以訴】かんえいさんねんに くまやまそうひゃくしょうちゅう めやすをもってうったえる
寛永3年(西暦1626年)、久万山地域のすべての百姓が連名で嘆願書(目安)を作成し、それを通じて訴えを起こしました。
この愁訴には、地域の代表として土居三郎右衛門と船草次郎右衛門が加わり、訴えの中心的な役割を担ったとされています。
江戸時代初期であり、地方の百姓が権力者や領主に対して訴えを起こすことは極めて稀かつ危険な行動でした。
こうした訴えを成し遂げるためには、百姓たちの団結はもちろん、土居や船草らが藩関係者や協力者と周到に計画を練り、取り巻きを固めるなどの入念な準備が必要だったと考えられます。
江戸時代初期はまだ統治体制が整っていない部分がありましたが、百姓が集団で訴えを起こすことは重大な行動であり、場合によっては処罰を受けるリスクがありました。
そのため、こうした行為は領主の統治に対する相当な不満があったことを示しています。
飛鳥時代から1400年――祈りが今も続く、堂山大権現の聖地「美川峰雨乞か森」
神霊地、堂山権現の祠へ通じる道はありません。柳谷美川線の電子基準点『美川』から尾根筋を越え、久万町内から松山方面が見える北側斜面をクマザサとミツバツツジの中を下ります。

円の位置が堂山権現

久万高原町美川峰(雨乞い森)のササの中を進んで堂山権現に向かう

堂山権現のそばから見る久万高原町内、奥には三坂峠があり、その向こうに松山があります。

久万高原町美川峰から見た久万高原町方面、左前に城が森(狼ヶ城)
さらにブナ林が広がる谷筋を進むと、石灰岩がそびえ立つ夫婦岩の下方にたどり着きます。シカやイノシシの獣道はありますが、人の歩く道は無くクマザサを押し分けて進みます。

美川峰のアケボノツツジの中をくぐり下るとブナ林に入ります。

美川峰南斜面のブナ林谷筋を下る。
堂山権現聖地は、しずくが絶えず岩肌をつたう谷筋の横、軒のひさしのように窪んだ岩肌の中に、祠がひっそりと隠れるように佇んでいます。

久万高原町大川美川峰の堂山権現霊地の岩窟
(美川峰から西の山並みの北側に清水の流れる岩肌の中間)

急こう配の岩窟にある堂山権現聖地
聖地の祠(ほこら)奥の院
昔は木製の祠があったそうですが、老朽化して朽ちてしまったため、長く残るように近年、石板で作り替えられました。
大川上組の石工が作った四角い平らな石を組み立て式にし、堂山権現を信仰する氏子たちがそれぞれ一枚ずつ運んで組み立てたそうです。
また、いつの時代のものか分からない古い賽銭が風化し、薄く小さくなっていました。

堂山大権現奥之院の祠
美川峰麓の堂山大権現の社
次に、聖地から標高差約500mほど下った山中に位置する、標高915mの岩山の頂にある社(やしろ)です。
この社からは、山並みに遮られて聖地を目視することはできません。
また、聖地は冬季になると深い積雪に覆われ、訪れることが困難になります。そのため、この地に社が設けられたのではないかと推測されます。
この社は近くまで道路が整備されているので、気軽に訪れることができます。
社伝によると、堂山権現は大宝元年(701年)8月に再建されたと伝えられています。
大宝元年(701年)は、菅生山大宝寺の建立年と同じです。
また、「御山権現」として、菅生山大宝寺がその神霊を守る神護の儀式(神護を謹行)を行っていたこと、そしてその再建には国司・散位(さんに)であった小千宿弥玉興(おちのすくねたまおき)公が奉行を務めたことが、棟札(むなふだ)に記されていると神社の由緒に記されています。
「御山権現」という神を祀るため、当時の大宝寺では神聖な儀式によって神霊をお守りしていたのです。
当時は、仏と神を一体として信仰する「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の考え方があり、菩薩を神として祀ることも行われていたとされています。
国司(こくし)という役職にあった小千宿弥玉興公(おちのすくねたまおきこう)という人物が、その儀式を取り仕切っていました。
国司とは、昔の日本で地方の国を治める役人のことで、現代でいう県知事のような役割を担っていました。
大宝寺は、元天台宗で、現在は真言宗に属している仏教寺院です。
大宝寺の本尊が十一面観世音菩薩であるため、堂山大権現がこの菩薩を権現として祀られた可能性があります。
特に天台宗では、観音菩薩を神として祀るケースが多く、「観音権現」として信仰された例もあります。
そのため、当初の堂山大権現は神道神ではなく、十一面観世音菩薩を権現として祀ったものと考えるのが自然でしょう。
また、堂山大権現の聖地が【奥之院】と呼ばれていることからも、仏教との関係が深いことに留意させていただきます。
このことから、堂山大権現の神霊は、仏教的な性格を持っていた可能性が高いと考えられます。
さらに、大川の宗泉寺は、かつて真言宗でしたが、現在は臨済宗東福寺派に属し、本尊として十一面観世音菩薩を祀っています。
【小千宿弥玉興】
「小千宿弥玉興」は、聖武天皇の時代に活動していた国司であり、伊予国(現在の愛媛県)において重要な役割を果たしました。
具体的には、神亀5年(728年)に、聖武天皇の命令を受けて、大三島大明神を伊予の九四(くし)郷(ごう)の各地に勧請(神様を招くこと)した人物として記録されています。
「堂山鎮守社は、星の宮または権現宮とも呼ばれています」という社伝の意味は、堂山鎮守社が異なる名称で呼ばれていることを示しています。具体的には、次のように解釈できます。
星の宮
「星の宮」という呼称は、星に関連する信仰や神を祀っていることを示唆します。星は古来より神秘的な力を持つものとされ、農業や航海、個人の運命などに影響を与えると信じられていました。したがって、「星の宮」と呼ばれることで、この神社が星に関する神を祀っている可能性が示唆されます。
権現宮
「権現宮」という呼称は、特定の権現(神仏習合における神の化身)が祀られていることを示します。
権現信仰は日本の宗教文化において重要な位置を占めており、神仏習合の象徴でもあります。
このように、「星の宮」と「権現宮」は、堂山鎮守社が多面的な信仰を担い、各時代背景に合わせた異なる神格を祀る場として認識されていることを示しています。
八柱神社境内の堂山大権現【堂山鎮守社】

円の中心が八柱神社

久万高原町大川の八柱神社境内にある堂山鎮守社
八柱神社(旧総河内八社大明神)の境内にある堂山大権現社は、1654年に建立されたとされており、土居三郎右衛門(1597~1655)の時代に建立されたと考えられます。
その神霊については分かっていませんが、本来は神道の枠組みに当てはまらない可能性があります。

堂山鎮守社左のハ柱神社
「浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記」は、庄屋間で貸し借りがあった
(弘化二年)一〇月一五日
土居家文書借用願 覚
一、柿源左衛門、林源太御両氏方之茶方之儀御沙汰書 壱通
一、承応四年御沙汰書 壱通
一、元绿十四年御沙汰書 壱通
一、堂山権現由来記 壱通
一、勝山公御入国以来御奉行御代官御名前付 壱通
一、延宝八申年庄屋持高江夫米相懸候=付御差免被下度願書控 壱通
(※他に借用書類が23通ありますが、以下は省略)
右之通写取申度二付借用申候、相済次第御返却可申候、 以上 巳十月十五日
土居五左衛門様
鵜原三蔵 梅木傳左衛門
土居三郎右衛門尉とは
土居三郎右衛門尉(本名:土居方純 どい まさずみ)は、江戸時代初期の人物で、伊予国浮穴郡大川村で庄屋を務め、地域の発展に尽力した伊予豪族・河野氏の支族である土居氏の一員です。
彼は戦国時代から続く名家の歴史を受け継ぎ、地域社会において重要な役割を果たしました。
土居三郎右衛門の高祖父である土居伊賀守方玄(下野守)どい いがのかみ まさつね(しもつけのかみ)(1512年 - 1574年)は、河野氏の先鋭として小田山本川町村城を守り、長宗我部氏と戦いました。
しかし、1574年、笹ケ峠の戦いで討死します。
その後、方玄の子である土居方貞(まささだ)(土居弥九朗)は、叔父大野山城守直昌を盟主として長宗我部軍と戦いましたが、河野氏の滅亡後、浮穴郡大川村の地に隠棲し、帰農しました。
江戸時代に入ると、方貞の子であり土居三郎右衛門の父である土居方徳(まさのり)(土居源右衛門尉)は、松前城主・加藤嘉明の信任を得て、浮穴郡大川村、上黒岩村、有枝村の3か村の庄屋に加え、中黒岩村、下黒岩村、沢渡村、日野浦村、黒藤川、柳井川村、西谷村、九主村、𧃴川村の下坂地区十三ヶ村の総責任者を任されました。これにより、土居家は地域社会の中核を担う存在としてその地位を確立しました。
土居三郎右衛門は、父方徳の後を継いで浮穴郡大川村の庄屋を務めました。
彼の活動は村の運営や発展に寄与し、地域住民からの信頼を得ました。
この庄屋職は代々土居家で継承され、久万高原町における土居家の歴史において欠かせない存在となりました。
土居三郎右衛門の功績は、長い歴史を持つ土居家が地域社会と深く結びつくきっかけを築きました。
伊賀守(いがのかみ)」や「下野守(しもつけのかみ)」は、土居方玄が武士としての地位や権威を示すために名乗った称号です。
これらは実際の役職かどうかに関わらず、格式や威厳を表す呼称でした。
また、土居三郎右衛門尉(どいさぶろうえもんのじょう)の「尉(じょう)」は、下級官職を指し、武士が家柄や地位を示すために用いる称号としても使われました。
江戸時代の人々には、複数の名前を持つことが一般的でした。
これは、社会的地位や状況に応じて名前を使い分ける文化があったためです。
※記載されている人物名のフリガナは、当時の読み方を推測したものです。地域や時代によって異なる場合がありますので、正確な読み方についてはあらかじめご了承ください。
まとめ
『堂山権現伝聞記』に刻まれた言葉のひとつひとつは、権力に逆らい、信仰を守り抜こうとした村人たちの「声なき祈り」の記録です。
時が流れ、戦や支配が遠い過去となった今だからこそ、こうした小さな史料に耳を傾け、忘れられた歴史の一端に触れることは、地域の過去と未来をつなぐ大切な営みと言えるでしょう。
記事は完成状態ではありません。修正しながら更新中です。ご了承ください。