久万高原町大川八柱神社境内の堂山鎮守社の石碑

石碑背面

この由緒書は、堂山大権現に関する出来事を当時の人々が既に理解していることを前提に記されており、背景や経緯の説明が省かれています。そのため、史実や伝承の全体像を知らないと、出来事の因果関係や文中の具体的な意味を正確に読み解くことが難しい構成になっています。
久万高原町大川八柱神社の石碑 権現伝聞記【浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記】
本ページでは、久万高原町大川八柱神社境内にある堂山鎮守社の石碑に刻まれた「浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記」の全文を掲載します。堂山大権現にまつわる歴史や伝承を伝える貴重な記録として、そのままの形でご紹介いたします。
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浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記
むかし此郷の狩人奥山にて鹿を見付、城ヶ森まて追ふに異形に見へ忽見へす、夫より雨乞か森に烏騒けるを不審におもひ彼山に登れは岩石の前に水溜り有、立寄て見れは珠のことくなる石に風調雨順民康の六字を現んす、
時昔宮人の入玉ふ御山と聞、其故やらんと思ひ軒口やすみねむりけるに夫婦の老翁来て告云く、我は此山の主し也、必心穢の輩入事なけれ、我を信するものはなかく堂の森に来たりて石上の六字を祈らは無実の難を数ひ幸を得さしめんと云、
畢りて岩石へ登ると見れは夢覚たり、是こそ神託なりと思ひ伏しをがみ歓喜して此郷に帰、彼森にほこらを建、奉称堂山大権現と、日ゝに参籠して国家の幸を祈る、
此子孫石見と云ふ、神子かろうと口に住みて、毎月一七日之参籠して祈念し不思議たりしとなり此神子慶長の比卒す、
戊辰両歳七月七日廟所かろうと口にて、村中寄集して供養有る、又宗泉寺の表に弁天と称し惣川内(そうこううち)の神主祭之、
然るに寛永三寅春群中至て及困窮に、此社に祈誓して人民松府に出て愁訴を成す、直に戴君恩郡中潤色にうつり、
依之此郷の氏神惣川内の社内に御神殿を移し、惣祈願所とさだめ、其後益諸の願をかけ其しるしあらすとゆふ事なし、
此餘は神慮を恐れ秘する物也、必うたかふ事なかれ
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この石碑文は、堂山大権現に対する人々の信仰や、その背景にある歴史を今に伝える貴重な資料です。江戸時代から続く久万山の歴史に興味がある方は、ぜひご一読ください。
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