愛媛県上浮穴郡久万高原町大川

松山城主・加藤嘉明に愁訴|堂山権現に誓い圧政と闘った村人たち

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松山城主・加藤嘉明に愁訴|堂山権現に誓い圧政と闘った村人たち

松山城主・加藤嘉明に愁訴|堂山権現に誓い圧政と闘った村人たち

(この記事は、過去にご紹介した内容をもとに、構成・情報を一新したリニューアル版ページです。)

大川の八柱神社の境内に祀られている堂山鎮守社(江戸時代=堂山権現惣祈願所)の社殿は、現在修復工事が行われています。(2025年3月)

大工さんによって新しい柱への入れ替えが進められており、工事が完了すれば、より安全に参拝できるようになります。

改修が終わりましたら、ぜひ足を運んでみてください。

この堂山権現には、八柱神社氏子総代を務めた事のある長老でさえ知らなかった物語が秘められていました。

そもそも、神社の境内に「権現」(仏教由来の神格)が祀られているのは一般的ではありません。

江戸時代、「堂山権現惣祈願所」は人々の祈りの場として大切にされてきました。

しかし、明治元年の神仏分離政策によって、「権現」という仏教色の強い名称が問題視され、廃社の危機に直面か?

神道の国教化政策により、藩庁が久万山にあるいくつかの堂を焼き払わせたことも一因となり、暴動が起こるほどの大きな混乱が広がりました。

――もともと、堂山権現は菅生山大宝寺との関係が深いことから、菩薩が神格だったのでは?

神仏分離令をきっかけに「堂山鎮守社」と改称し、神道の神格に改め、神道としての由緒を整えることで、堂山さんの信仰は今も受け継がれている──そんなふうに推測しています。

そのような経緯をふまえると、なぜ八柱神社の境内に堂山権現が祀られているのか?

――その理由や背景は?

舞台は寛永三年(1626年)

圧政に苦しむ村人たちが立ち上がり、支配者を排斥して久万山を開放した物語です。

そして来年は、ちょうどその出来事から400年という節目の年を迎えます。

実は、その歴史的な出来事の背景には、堂山権現が深く関わっていました。

当時の人々にとって、信仰は現代とは比べものにならないほど重要で、その依存の度合いも全く異なっていたと思われます。

なお、『美川村二十年誌』に掲載されている堂山大権現伝説は、史実とは大きく異なっています。

もしかすると、この伝説は、明治元年の神仏分離政策によって姿を変えた「堂山権現」の名と信仰を、後の人々に伝え残すために生まれた物語だったのかもしれません。

実際の歴史をたどると、伝説以上に驚くべき出来事があったのです。

松山城主・加藤嘉明に愁訴|堂山権現に誓い圧政と闘った村人たち

伊予松山藩主・加藤嘉明が築城した松山城

江戸時代の初め、愛媛県の松山市を『松山』と名付け、松山城を築き、町並みを住みやすく整え、さらに石手川の氾濫を防ぐために川の流れを改善する工事を行った立派なお殿様がいました。

そのお殿様の家来の一人が、現在の久万高原町地域の村づくりを任されていました。

しかし――そのやり方があまりにもひどく、村人たちは苦しめられていました。

そこで、大川村と日野浦村の、かつて武士だった二人が久万山を救うために代表となり、行動を起こしました。

二人は村人たちとともに立ち上がります。

そして、奥山の堂山大権現に誓い祈り、松山のお殿様に訴え出たことで、お殿様はその家来を村づくりの役目から外しました。

この出来事をきっかけに、八柱神社の境内に堂山権現惣祈願所が祀られるようになったのです。

――実は、この二人は、かつて武士として、この家来とともに大坂夏の陣で戦い、その家来の命を救った戦場での壮絶な過去があったのです。

助けられた家来は、殿様の家来としての誇りにかけて「この恩は必ず返す」と二人に約束しました。

―― かつて戦場で「この恩は必ず返す」と誓った家来。

しかし――彼はその言葉を忘れ、 久万山の村人たちを苦しめる冷酷な村づくりを行っていたのです。

この出来事をきっかけに、八柱神社の境内に堂山権現惣祈願所が祀られるようになったのです。

今から400年前の江戸時代の初め、久万高原町を統治していたのは佃十成(つくだかずなり)という戦国武将です。

久万山の民に迫られ、加藤嘉明は佃十成の更迭を決断。久万山大川村 堂山大権現に佃排斥を誓い祈りて成就。小さな祠に込めた大きな願い、村人の祈りが歴史を変えた。

佃は、伊予松山藩の初代藩主・加藤嘉明(かとうよしあき、松山城を築いたお殿様)の筆頭家老(お殿様の次に偉い人、藩政の実務トップ)として、久万山地方の知行(領地の支配と収益権)を任されていました。

しかし、高い年貢を課すだけでなく、大川村、西明神村、菅生村、畑野川村にある自身の所有地で久万山の村人を強制労働させるなど、過酷な統治を行っていました。

さらに、久万山の百姓を毎日松山の広大な屋敷に呼びつけて厳しい労働を強いていました。

久万山領民の生活を犠牲にして築いたその屋敷は、「さても見事な治郎兵衛(佃十成)の屋形、四方白壁八棟造り、阿波にござらぬ讃岐に見えぬ、まして土佐には及びはないぞ、伊予に一つの花の家」と称されるほどの立派さでした。

その結果、久万山地域は深刻な困窮状態に陥りました。

こうした圧政に苦しむ中、寛永3年(1626年2月)、加藤に佃の排斥を求めて立ち上がったのは、徳川と豊臣の最後の決戦・大坂夏の陣で佃の軍勢に参戦し、数々の武功を立てた大川村と日野浦村の元武士二人でした。

さらに、この二人には、佃をどうしても許せない理由がありました。

それは、大坂夏の陣において交わされた「ある決死の約束」が、裏切られたことでした。

慶長20年(1615)の大坂夏の陣、久万山からは大川村の土居三郎右衛門(当時18歳の若武者)と日野浦村の船草次郎右衛門が、佃の軍勢に従軍しました。

佃は長柄川から退く際、大坂勢に追撃されて川に落ち、命の危機に瀕していました。

その時、土居と船草は決死の覚悟で追手を鉄砲で撃ち、また槍を合わせて数名を討ち取り、舟を回して沈んだ佃を救い、しんがり(退却時に最後尾で敵を防ぐ役目)を務めて事なきを得ました。

このほかにも多くの勲功を立てました。

佃も感激し、「帰国の上は必ずこれに報いるであろう」と約束しました。

しかし、戦が終わり帰国してからも、佃からは何の報いもなく、ただ時が過ぎるばかりでした。

戦での勲功が重んじられていた時代にあって、佃の圧政に対する不満とともに、この約束違反への反発が高まり、土居と船草が村の代表として立ち上がり、佃の排斥運動を引き起こしました。

事態の収拾を図るため、加藤は佃の息子を後継とする案を示しましたが、土居と船草はこれも拒否しました。

仲介に入った家老の堀主水(ほりもんど)・足立重信(あだちしげのぶ)から、今後は圧政を行わないとの証文を得て、二人はようやく納得しました。

そして翌年の1627年には、加藤と佃の双方に福島藩への転封(領地替え)が命じられ、佃による久万山支配もここに終焉を迎えました。

また、次の藩主である蒲生忠知(がもうただとも)は、久万山に地方知行制を採用しませんでした。

なお、土居三郎右衛門の父は、かつて加藤嘉明に召され、大川・上黒岩・有枝三ヶ村の庄屋となり、さらに下坂十三ヶ村の総責任者に任じられていました。

訴えが年貢の軽減や免除、圧政の改善ではなく、強い支配権を持つ領主そのものの排斥を求め、相応の危険を伴う愁訴によってそれを実現させたというのは、本当に驚くべきことだと思います。

土居庄屋文書に残された愁訴の目録
【 寛永三年ニ久万山惣百姓中目安ヲ以訴 】

私は松山城下の堀之内を通るたび、堂々とそびえ立ち威圧感を放つ松山城のふもとにある広大で荘厳な松山藩役所の二之丸御殿で、久万山のために愁訴に挑んだ二人の姿を思い浮かべ、その勇気と偉業に敬服し、身が引き締まる思いがします。

堂山権現は、大川に三ヶ所あります。

美川峰・堂山大権現奥之院の祠(ほこら)

美川峰・堂山大権現奥之院の祠(ほこら)

久万高原町大川堂山大権現の山中の社(やしろ)

堂山の社(やしろ)

久万高原町大川八柱神社境内の堂山鎮守社

八柱神社の境内

美川峰・奥之院の祠(ほこら) 、堂山の社(やしろ)、そして八柱神社の境内です。

堂山の社と八柱神社へは車で近くまで行くことができますが、奥之院は美川峰の原生林の中にあり、そばには清水が湧き出る大きな岩の窪みに位置しており、道路や山道は整備されていません。

奥之院のある山並みは、久万高原町内からもよく見えます。

八柱神社の堂山鎮守社には、平成24年に建立された大きな石碑があります。

碑には、土居家古文書に伝わる『堂山権現伝聞記』が刻まれており、その中には寛永三年(1626年)に伊予松山藩主・加藤嘉明への訴えが記されています 。
伝聞記は、千葉大学文学部の先生方が土居家文書を調査した際に書き起こしたものと思われます。

ただし、伝聞記のみが記されており、内容の説明はありませんでした。

伝聞記は、他村の庄屋がコピーをとるために貸し出されていた記録も残っていました。

この伝聞記は、当時の状況や背景を読者がすでに知っていることを前提に記されているため、因果関係やその意味を理解するのが難しくなっています。

堂山権現伝聞記(浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記)

堂山権現伝聞記(浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記)

浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記

むかし此郷の狩人奥山にて鹿を見付、城ヶ森まて追ふに異形に見へ忽見へす、夫より雨乞か森に烏騒けるを不審におもひ彼山に登れは岩石の前に水溜り有、立寄て見れは珠のことくなる石に風調雨順民康の六字を現んす、

時昔宮人の入玉ふ御山と聞、其故やらんと思ひ軒口やすみねむりけるに夫婦の老翁来て告云く、我は此山の主し也、必心穢の輩入事なけれ、我を信するものはなかく堂の森に来たりて石上の六字を祈らは無実の難を数ひ幸を得さしめんと云、

畢りて岩石へ登ると見れは夢覚たり、是こそ神託なりと思ひ伏しをがみ歓喜して此郷に帰、彼森にほこらを建、奉称堂山大権現と、日ゝに参籠して国家の幸を祈る、

此子孫石見と云ふ、神子かろうと口に住みて、毎月一七日之参籠して祈念し不思議たりしとなり此神子慶長の比卒す、

戊辰両歳七月七日廟所かろうと口にて、村中寄集して供養有る、又宗泉寺の表に弁天と称し惣川内の神主祭之、

然るに寛永三寅春群中至て及困窮に、此社に祈誓して人民松府に出て愁訴を成す、直に戴君恩郡中潤色にうつり、

依之此郷の氏神惣川内の社内に御神殿を移し、惣祈願所とさだめ、其後益諸の願をかけ其しるしあらすとゆふ事なし、

此餘は神慮を恐れ秘する物也、必うたかふ事なかれ

堂山権現伝聞記の現代語訳

石碑文の現代語訳(語訳に誤りあらば、ご容赦くださりませ)

昔(現代から約1400年前の飛鳥時代)、この村の狩人が城ヶ森(狼ヶ城)まで鹿を追いかけていると、姿が変わり、突然消えてしまいました。

その後、雨乞いの森(美川峰)でカラスが騒いでいるのを不思議に思い、森に登ると、岩の前に小さな水たまりがありました。

立ち寄ってみると、水の中の丸い石に「風調雨順民康」という六文字が現れました。

狩人は「昔、宮中の身分の高い方が入られた神聖な山だと聞いている、そのためだ」と思いました。

疲れ果てた狩人が岩の軒下で休んでいると、夢の中に老夫婦が現れ、「我らはこの山の主である。けがれた心の者はこの山に入ってはならぬ。

我らを信じる者は堂の森に来て『風調雨順民康』と祈れば、 身に覚えのない苦難に遭っている人々に幸運がもたらされるであろう。 」と告げました。

老夫婦の話が終わると、狩人は岩に登って景色を見渡したところ、まるで目が覚めたかのように現実に戻ったことに気づきました。

狩人はこれを神のお告げと信じ、深く頭を下げて拝み、喜んで郷へ帰りました。

その後、この森に祠を建て、堂山大権現として祀り、国の安泰と村人の幸せを祈りました。

狩人の信仰は、代々その子孫によって受け継がれていきました。

狩人の子孫は石見(いわみ)と呼ばれ、神子として「かろうと口」に住み、毎月17日に神殿にこもって祈りを捧げ続けたところ、不思議な出来事がたびたび起こりました。

神子は慶長年間(1596年~1615年)に亡くなりました。

村人たちは、7月7日の戊辰両歳(ぼしんりょうさい)と呼ばれる特別な年に、神子の霊を祀る「かろうと口」に集まり、供養を行い、村の平穏を祈りました。

また、宗泉寺の前には弁天が祀られ、惣川内(そうこううち)の神主がその祭祀を行い、村の平和を願いました。

神子の供養や弁天祭祀にもかかわらず、寛永三年寅春(1626年2月)、深刻な困窮状態に陥りました。

そこで、堂山大権現に祈りを捧げ、誓いを立てた上で、松山に赴き、藩主に愁訴(正式な手続きの訴え)を申し立てました。

その結果、藩主の配慮により村中が潤い、安定した状態になりました。

この出来事を受けて、堂山権現は惣川内神社(現在の八柱神社)に移され(1654年)、総祈願所として祀られることになりました。

その後、多くの願いをかけ、そのすべてに効果が現れたと言われています。

このことは神のご意思を恐れて秘めていたもので、決して疑ってはなりません。

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