愛媛県上浮穴郡久万高原町大川

久万高原町大川の歴史秘話|大坂夏の陣、若武者の武功報われず

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久万高原町大川の歴史秘話|大坂夏の陣、若武者の武功報われず

久万高原町大川の歴史秘話【大坂夏の陣の武功むなしく】

大川にそびえ立つ山『狼ヶ城』

久万高原町大川の狼ヶ城(400年前の村人には狼ヶ城が大坂城に見えていた)

🔎【目次】

1.大坂夏の陣に村の命運を懸けた――大川の若武者と堂山鎮守社

久万高原町大川の全景 中央の円内が堂山鎮守社の杜

久万高原町大川 中央の円内が八柱神社と堂山鎮守社の杜

久万高原町大川の「堂山権現鎮守社」伝えたい郷土の歴史

愛媛県上浮穴郡久万高原町大川八柱神社(旧:惣川内神社)の境内にある堂山鎮守社。

今年、修復工事が行われ、大工さんの手で新しい柱に入れ替えられました。

機会があれば、ぜひ訪れてみてください。

久万高原町大川の修復された堂山鎮守社(堂山権現総祈願所)

修復された堂山鎮守社(堂山権現惣祈願所)

かつてこの社は、「堂山権現惣祈願所」と呼ばれ、人々の信仰を集めていました。

しかし、明治時代の神仏分離令により、堂山権現は廃社の危機に直面したのではないでしょうか。

久万山では、明治政府の宗教政策の影響により、堂が焼き払われたり、さまざまなデマが広まって、ついには暴動にまで発展したとも伝えられています。

そこで呼称を「堂山鎮守社」と改め、仏教由来の「権現」という名前を表に出さず、守り続けたものと推測します。

また、『美川村二十年誌』には「堂山大権現伝説」という題名で、江戸時代の初め――寛永三年(1626年)の出来事をもとにしながらも、歴史とは異なる伝承が語られています。

伝説のあらすじは――、豪雪による不作で、年貢を納められなかった村人が、松山の殿様に直訴し、打ち首を命じられたものの、堂山権現のご加護によって許され、土産を持たされて無事に村に帰った、と言う話です。

この話を、かつて神社氏子総代を務めた長老は、昔、「話し上手なござおいさんから聞かされた」といいます。

寛永三年に起きた本当の出来事は、伝説よりもはるかに過酷なものだったようです。

村の厳しい暮らしの陰には、徳川と豊臣の最後の決戦「大坂夏の陣」に、村人の平穏な暮らしの回復を願い、命を懸けて参戦した大川と日野浦の若武者たちの忠義と武功がありました。

しかし、その武功もむなしく、彼らを待っていたのは、村人を苦しめる過酷な運命だったのです。

江戸時代の久万高原町大川の風景イメージ画像

久万高原町大川地区――時を越えてなお、変わらぬ風景が過去と未来を静かに結びます。

久万高原町大川の初夏の風景

久万高原町大川の雪景色

2.寛永三年、大川で重なった伝説・史実・石碑の物語

戦国の世が終わりを告げた江戸時代の初め――久万山を治めていた支配者、佃十成(つくだ かずなり)。

その人物を辞めさせてほしいと、村人たちが声を上げた出来事が、他村の庄屋の記録に残されています。

長年にわたる悪政への苦しみと失望が、村人の心の中で積もり続けていたのです。

後に「佃十成の排斥運動」と呼ばれるこの行動は、ただ権力に逆らうためではなく、村の未来を守るための必死の訴えでした。

この記録の中には、堂山権現伝説と同じ「寛永三年」という年号が登場し、年号がピタリと一致しています。

さらに、堂山鎮守社に建てられた石碑の文面にも、同じ「寛永三年」の文字が刻まれているのです。

――つまり「寛永三年」という年号を通して、伝説・史実・石碑の三つが符合し、「佃十成」という人物で一本の線につながっているのです。

堂山鎮守社の「堂山権現伝聞記」が刻まれた石碑

寛永三年と刻まれた石碑――いったい、そこには何があったのでしょうか。

この碑文には、神社でよく目にする由緒や神名の説明ではなく、 大川の村人が出陣した「大坂夏の陣」の情景や、 「佃十成の排斥運動」に込められた切実な願い、 そしてそれが叶ったときの喜びの声が、伝説のかたちに仕立て上げられて刻まれています。

3.村人が声を上げた「佃十成の排斥運動」

伊予松山藩の松山城(加藤嘉明築城)

江戸時代の初め、松山と名付けて城を築き、町並みを整備し、石手川の氾濫対策工事を行ったのが、伊予松山藩初代藩主の殿様・加藤嘉明(かとう よしあき)です。

その殿様の家来の一人であり、かつては戦国武将として名を馳せた佃十成という人物が、現在の久万高原町一帯の領地とその収益を治める「知行制」により、久万山の支配者としての役目を与えられました。

当時の久万山一帯は伊予松山藩に属しており、藩内で唯一「地方知行制(じかたちぎょうせい)」という特別な支配体制が敷かれていました。

なぜ久万山だけが特別な体制を定められたのでしょうか。

久万山は戦国の気風を色濃く残す地で、多くの山城の城主やその家臣、旧臣層の子孫たちがとどまり、自ら耕作に励み過ごしていました。

しかし、関ヶ原の戦いの際、殿様が徳川方に従って出陣していた留守を狙い、毛利勢(旧河野氏家臣連合軍)約3,500人の大軍が三津浜へ攻め寄せます。

このとき、河野家再興を願う残党の中でも、かつて久万山の支城に関わった旧臣層たちが毛利軍に呼応して荏原や久米で戦を起こしました。

松前城の留守を預かった佃は軍勢を率いてこれを鎮圧、その功績によって殿様から特に信任を受け、久万山を治める役を命じられます。

久米の戦いでは首に鉄砲傷を負い、弾が体に残ったまま生き延びた佃にとって、この任は久万山残党の鎮圧と戦功ゆえの任命でもありました。

こうした経緯から、久万山は単なる一山村ではなく、旧河野氏残党とのつながりを断ち切るための象徴的な地とされ、他の地域以上に特別な体制を敷かれることになったのです。

そしてその統制のもとで、久万山領民に課せられたのは、重い年貢だけではありませんでした。

佃は大川・西明神・菅生・畑野川などかつての有力者の多く残る村に自らの手作地(直営地)を設け、百姓を責め立てて、過酷な労役を課しました。

狙いは、有力者の息のかかる土地を奪い、抵抗の意志をくじき、莫大な権益を得ることにあったのでしょう。

すでに泰平の世に入ったはずの江戸時代にもかかわらず、まるで戦国の乱世で敵地を奪ったかのような悪しき一派のごとく、容赦なく振る舞い、言葉では尽くしがたいほどの悪政を重ねた佃とその配下たちの姿が浮かび上がります。

「草木一本に至るまで領主のもの」とされた時代、農民の自由はおろか、女性や子ども、老人たちも声なき存在として扱われた、まさに恐怖と苦しみの時代だったと思います。

こうした姿は、力を持つ者がその力を自らのために使うとき、いつの時代も繰り返される苦しみのかたちにほかならず――現代においても、支配や強権による理不尽な状況が報じられぬ日はありません。

人の世は、どれほど時を経ても、なお学びきれぬ儚さを抱えているのかもしれません。

久万山支配者の百姓への厳しい扱い

さらに、追い打ちをかけるように、久万山領民を毎日松山の広大な佃の屋敷に呼びつけ、過酷な労働をさせていたのです。

松山までは道のりは40~50km。

車のない当時、徒歩で向かうだけでも丸一日かかるような過酷な移動でした。

久万山領民を苦しめて築かれた佃の屋敷は、「四方白壁、八棟づくり、阿波にござらぬ、讃岐に見えぬ、まして土佐には及びはないぞ、伊予に一つの花の家」

と、称されるほど、四季折々の花に囲まれた広く立派な屋敷――さらに中屋敷・下屋敷も備え、贅の限りを尽くした暮らしを送っていました。

イメージ画像です。

佃の過酷な支配によって、村人たちの暮らしは追い詰められていきました。

あまりにも過酷な支配から想像すると、久万山は極度の困難に追い込まれていたと考えられます。

村々は貧困にあえぎ、病に苦しむ者、食糧難による病死者や餓死者、子売り・身売り、赤子の間引きや口減らし、自害や一家心中、さらには翌年の命綱である種籾さえ食い尽くすような惨状に至り、もはや打つ手もなく、生きる術を失うほどの困窮の極みに陥っていたと推測されます。

そこで、大川村庄屋職の土居三郎右衛門(当時29歳)と、日野浦村の船草次郎右衛門の二人が、寛永三年(1626年)、久万山を救うために行動を起こしたのです。

二人は村人たちとともに立ち上がりました。

そして、松山の殿様、加藤嘉明(当時63歳)に、久万山領主の佃十成(当時73歳)の交代を訴えました。

当時の領民にとって、藩主への訴えは大きな決断であり、相当な覚悟と団結が求められたことでしょう。

通常、領民に許された訴えは、年貢の減免や一時的な負担の軽減にとどまりました。

ところが、領主そのものの交代を求めることは、前代未聞であり、処刑すら覚悟せねばならぬ命を懸けた行動だったのです。

それは、殿様自らが任命した領主・佃十成に異を唱える行為であり、殿様の人事に口を出すことは、殿様に逆らう無礼として重罪に問われかねない危険があったのです。

地方知行制のもとで領主交代を願うことは、小藩の殿様を取り替えてほしいと訴えるに等しく、それを実行したこと自体が、久万山の困窮の深刻さを物語るものです。

殿様からの返事は、佃の息子を後継の久万山の領主とする案を示されましたが、二人は納得せず、受け入れませんでした。

その後、仲介に立った殿様の別の家来二人が「今後はこのようなひどいやり方を絶対させない」との証文を取り、ようやく二人は納得しました。

そして翌年の寛永四年(1627年)、松山城の完成を待たずして、殿様と佃はともに福島県会津地方(会津藩)へ転封(国替え)を命じられました。

こうして、村人を苦しめた佃十成による久万山支配も終止符を打ったのです。

さらに、次の殿様は久万山に知行制を採用しませんでした。

この事実は、排斥運動とその影響がいかに大きかったかを物語っているといえるでしょう。

来年・2026年は、久万山が解放されてから、ちょうど400年の節目を迎えます。

久万高原町大川の風景

写真正面の高い山は、狼ヶ城(ろうがじょう)

4.堂山権現に誓い、立ち上がった村人たち

主君・加藤嘉明に訴える前に堂山権現に誓い、立ち上がった二人

イメージ画像です。

この章で述べる内容は、後述の「堂山権現伝聞記」の一節をもとにしています。

土居・船草と村人たちは、松山の殿様に訴える前に、奥山にある堂山権現(奥之院)へ向かい、平穏な暮らしの回復を祈願し、その願いが正しきものとして殿様のご裁可を得、成就するよう誓いを立てたうえで、行動に移したものと思われます。

こうして祈誓した願いが成就したことを堂山権現のご加護と受け止めた村人たちは、感謝を込めて八柱神社の境内に「堂山権現惣祈願所」を祀るようになったと考えられます。

久万高原町大川の堂山鎮守社

八柱神社境内の「堂山権現惣祈願所」――明治時代に「堂山鎮守社」へ改称

ちなみに、土居三郎右衛門の父は、かつて殿様の加藤に見込まれて、大川・有枝・日野浦の庄屋職・下坂十三か村の責任者になっていました。

そんな父から、「まず、堂山権現の御前にて誓いを立て、しかる後に、松山へまいられい」と、諭されたのではないでしょうか。

堂山権現の聖地は美川峰の岩窟にあります。

信仰を集めた、堂山権現(奥之院)は美川峰の山中にあります。(33.57086 132.93477)上の写真は、狼ヶ城の麓から見た美川峰。

堂山権現の聖地は、柳谷美川線にある電子基準点『美川』から、尾根を越えてたどり着く場所です。

車がなかった昔は、大川側から山を登り、参拝していたと聞いています。

美川峰から見た久万高原町

聖地に近づき尾根を越えると、眼下には久万町内から三坂峠方面の風景が視界に広がってきます。

堂山権現聖地近辺のブナ林

美川峰の尾根を越え、ブナ林に包まれた谷筋を下った先に、静かに聖地がたたずんでいます。

堂山権現の聖地の岩窟

堂山権現が祀られた岩窟

久万高原町大川美川峰の堂山権現がある岩肌の窪み

聖地へ続く道はなく、清水の湧き出る岩肌を伝いながら進みます。

堂山権現の聖地の岩肌

今も静かにたたずむ、堂山権現の祈りの地

堂山権現の聖地の祠

堂山権現の聖地・奥之院・奥御殿――岩窟内に祀られた石造りの祠(約30cm角)

かつては木製の祠が祀られていたそうですが、時の流れとともに朽ちていったと聞いています。

飛鳥時代より、千四百年近くにわたって祈りが捧げられてきたとされるこの地では、数え切れぬほどの木製の祠が、幾度となく建て替えられてきたことでしょう。

1980年代、朽ち果てることのないよう石造りとし、後世に伝えるために、大川上組の石工の手によって、石板を組み立て式に加工した新たな祠が造られました。

石板は分解された状態で、地域の人々が一枚ずつ背負って岩窟まで運び、現地で組み立てられた、と聞いています。

ただ、現在この地の存在を知る人はわずかに残っているものの、実際にここを訪れる人はほとんどおらず、これから訪れる人も、おそらく私たちの世代が最後となるでしょう。

やがてこの地は、人々の記憶からも静かに消え、遠い彼方へと沈んでゆくのかもしれません。

5.「大坂夏の陣」――数々の武功、そして家老の命を救った忠義、やがて訪れた裏切り

大坂夏の陣の情景

実は、佃・土居・船草――この三人には、戦場で命を懸けて交わした“誓い”の物語が秘められていたのです。

なんとこの三人、かつて徳川と豊臣が激突し、豊臣を滅ぼした「大坂夏の陣」で、同じ軍勢に属して主従の関係にあったのです。

そのとき、佃(当時62歳)は、殿様が松山藩軍の大将として、石高から推測すると二千人を超える兵を率い全軍を指揮する中、部隊長として自らの軍を率いていました。

土居(当時18歳)と船草は佃の配下として、将軍・徳川秀忠の本陣の右――重責を担う位置に布陣し、大坂方との決戦の刻を待っていたのです。

そして、その戦のさなか、敵に追われ川に沈んだ佃を救うため、土居と船草は決死の覚悟で鉄砲と槍を手に追手を討ち取り、舟を回して佃を助け出しました。

さらに二人は、軍勢を率いた佃を守るために、退却する味方の最後尾に立ち、追っ手を食い止める“しんがり”の役目を果たしながら、数々の武功を挙げたと伝えられています。

まさに、命を預け合った関係だったのです。

助けられた佃は深く感激し、「この恩に必ずや報いる」と、二人に誓いました。

大坂夏の陣戦闘風景

――それから、幾年月が流れ。

かつて「この恩は必ず返す」と誓った佃。

彼らが戦場にて共に死線を越え、命を懸けて助け合った記憶は――深い絆となって刻まれていたはずでした。

しかしその言葉は、都合よく忘れ去られたのか、それとも覚えていながら、支配体制を守るためにあえて伏せられたのか──いずれにせよ、彼は久万山の村人たちを苦しめる冷酷な支配を押し進め、ひたすら自らの欲を満たすことに執着していったのです。

当時の武士社会では、戦での忠義や勲功に対して、しかるべき恩賞や地位で報いるのが当然とされていました。

佃もかつては仕えた主君に功を立て、地位を与えられた身でありながら、その振る舞いは武士の道から外れ、到底許されるものではありませんでした。

その裏切りに対する反発も、排斥運動に拍車をかけたようです。

「大坂夏の陣」
伊予松山藩軍は2代将軍徳川秀忠に従って参陣

総大将:加藤嘉明(初代松山藩主)

部隊長:佃次郎兵衛尉十成

佃配下の一翼
土居三郎右衛門尉方純(大川村)
船草次郎右衛門尉(日野浦村)

「大坂夏の陣」と久万山軍勢

関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)で天下を手にした徳川家康が、ただ一つ従わせきれなかった勢力、すなわち大坂城の豊臣家との最終決戦でした。

「徳川か、豊臣か」。二つの宿命が激突した最後の戦い、それが慶長20年(1615年)5月7日の「大坂夏の陣」だったのです。

舞台となった大坂城は豊臣家最後の拠点であり、この戦で落城し、豊臣家は滅亡しました。

戦には、徳川方およそ15万5千人、豊臣方およそ5万5千人、あわせて20万人を超える兵がぶつかり合いました。

伊予松山藩も加わり、2代将軍徳川秀忠に従って出陣しました。

松山藩軍は、大阪城を正面に見て将軍秀忠本陣の右側(右翼)に布陣し、久万山領からの百人規模の兵を含め、2千人以上が動員されたと考えられます。

岡山口の激戦では、豊臣方の大野治房軍が将軍秀忠の本陣を狙いました。

大御所・徳川家康はすでに将軍職を譲っていましたが、総大将として茶臼山に本陣を構え、隣に並ぶ秀忠軍とともに全軍を統率しました。

両本陣はごく近く、戦場ではほぼ横並びに構えていました。

豊臣軍は兵力で劣っていたため、持久戦では不利と見て、あえて一気に徳川方の両本陣(家康・秀忠)を突く戦術をとったと考えられます。

そのため家康の陣には毛利勝永や真田信繁(幸村)ら精鋭が襲いかかり激戦となり、一方その隣では大野治房軍が守りを突破して秀忠本陣に突撃し、一時は大混乱に陥りました。

その窮地にあって、松山藩軍の加藤嘉明勢が、黒田長政勢とともに将軍・秀忠本陣の援護に駆けつけ、豊臣勢に立ち向かいました。

そして本陣を守り抜き、やがて反撃に転じたことで、大野治房はやむなく大坂城へ退き、戦局は徳川方優勢の流れとなりました。

やがて豊臣方は総崩れとなり、戦場は大混乱に包まれます。

そのさなか――敵に追われた部隊長の佃は川を渡る際に落水して沈んでしまいました。

その瞬間、佃を見失った兵士たちは大きなざわめきに包まれました。

その異変を見逃さなかった土居と船草が、決死の覚悟で鉄砲と槍を振るい、敵兵を討ち取りながら舟を回し、川に沈んだ佃を救い上げました。

当時、動員された兵士の中には、佃に日頃から仕えていた近しい側近も多くいたはずです。

それにもかかわらず、危険を顧みず佃を救ったのは、その側近たちではなく、久万山の若者である土居と船草の久万山勢でした。

支配された立場の久万山の若者が、久万山領主である家老を救った――この出来事は、単なる忠義の美談にとどまらず、久万山の支配体制の中で「何かを変えたい」と願った若者たちの意思表明だったのかもしれません。

誰が真に行動できるのか――そう問いかけてくる一場面であったのです。

「大坂夏の陣」の惨状

「戦国時代の戦」と聞くと、ゲームやアニメ、漫画、映画やドラマ、さらには武将フィギュアやイベントなどで描かれる勇ましい武将たちの活躍や華やかな戦術に目を奪われがちです。

しかし、実際の戦場は現代人には想像もつかない地獄のような惨状でした。(参考:黒田長政『大坂夏の陣屏風』)

武士にとって首を取ることは掟であり、無数の首のない死体が転がる中、勝者は首を腰にさげたり、槍先に刺して誇らしげに引き上げました。

戦の後には首実検(討ち取った首を持ち寄り、誰を討ったかを確認して武功を裁定する儀式)が行われ、首の山が築かれたと伝わります。

捕虜となった兵士の多くも処刑され、手を合わせて命乞いしても容赦はなく、生き延びた者はごくわずかで、豊臣方の兵は実質的に「全滅」に近い運命をたどったのです。

さらに、当時の戦では「乱妨どり」と呼ばれる行為が行われ、勝者は敗者の財産や食料・城内の貴婦人まで奪うことが暗黙に認められていました。

落城後の城下町は火に包まれ、町人の家財や食糧は奪われ、怯えて泣きじゃくりながら連行される女性、幼子を必死に守る母親、命を奪われる町人男性や逃げ遅れた子ども、乱暴狼藉・略奪・老若男女を問わぬ殺戮や人身売買――戦場の現実は想像を絶する惨状でした。

こうした行為は、平和の中の現代人には信じがたい習慣ですが、戦国の兵士にとっては「命を懸けた戦の戦利品」、すなわち当然の報酬とされていたのです。

現代では名だたる血統や家柄・名将がもてはやされ、忠義や大義、名誉や武功と華やかに描かれる戦国の裏側には、弱き立場で苦しむ人々と、残虐にふるまう武士たちの姿があり、血と炎と屍が積み重なる現実があったことを忘れてはなりません。

今日の私たちが「先祖が名血統」や「武家の血筋」として語り継ぐ人物の多くも、実際には領民を苦しめ、弱者を犠牲にして成り立った権威の担い手であったことを、心に留めておく必要があります。

大坂夏の陣の合戦イメージ画像

江戸時代の前の戦国時代、土佐軍勢から伊予の国を守っていたのは、久万山各地に築かれた支城の城主やその家臣団(大野直昌城持48名)でした。

その子孫たちは当時の久万山にも数多く残り、農作業に従事しながらも、いざという時には武勇を発揮する一族として知られていました。

この大坂夏の陣は、支配体制が変わった後も、旧臣層の中で志ある者にとっては、「家名の再興をかけた戦」として受け止められたはずです。

彼らはこの戦に希望を託して参戦し、松山藩軍の中でもひときわ勇猛さを示したと考えるのが自然でしょう。

土居三郎右衛門(どい さぶろうえもん)

実名・方純(まさずみ)/1597~1655年

6.堂山鎮守社にたたずむ謎の石碑

堂山鎮守社の石碑

堂山権現伝聞記が刻まれた石碑

堂山鎮守社の石碑建立年は平成24年8月吉日、大川部落氏子中

そして次は、平成24年に建立された、堂山鎮守社にひっそりとたたずむ謎の石碑に迫ります。

この石碑には、土居家古文書に伝わる『大川村権現伝聞記』が刻まれています。

石碑に刻まれた文章は、千葉大学文学部の先生方が土居家古文書を調査された際に書き起こされたものと思われます。

およそ400年もの間、人目に触れることのなかった重要な記録です。

この石碑の建立は、おそらく、土居家先代の念願だったのではないでしょうか。

千葉大学の先生方は調査時、伝聞記が大切に保存されていることに注目し、神主や氏子総代に堂山権現の由来や伝聞記についてたずねたものの、知る人はいなかったようです。

なお、「佃十成の排斥運動」の史実は、別の庄屋文書に記録されており、その内容が『久万町誌』の「藩政時代の久万」に掲載されています。

「伝聞記」に関する解説資料はありませんが、その内容は「佃十成の排斥運動」と符合しており、史実を裏付けるものとなっています。

執筆当時の「伝聞記」は漢文調で書かれていたと考えられますが、石碑に刻まれた文章は、江戸後期に筆写されて読みやすい文体になっています。

当初、この石碑は、大川奥組の堂山権現中宮社(中之院)に建立される予定だったそうです。

大川奥組の堂山権現中宮社

大川奥組の堂山権現中宮社

久万高原町大川奥組の堂山権現拝殿復興の碑

久万高原町大川奥組・堂山権現中宮社にある拝殿復興の碑

しかし、中宮社はちょうどその頃に再建されたため、再建に関する内容を記した「拝殿復興の碑」が中宮社に設置され、『伝聞記』の石碑は、八柱神社境内の堂山鎮守社に置かれることになったと聞きました。

「伝聞記」の内容を踏まえても、八柱神社境内への設置は適切であったといえるでしょう。

「伝聞記」は、過去の歴史をすでに知っている人を前提に書かれているため、初めて読む方には話の流れや背景がつかみにくく、理解しにくい構成になっています。

それでは、石碑に刻まれた文章とその現代語訳、そして読み取れる範囲での解説をお届けします。

7.宗泉寺に弁天か?心けがれた者への警告か?――「大川村権現伝聞記」

浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記

むかし此郷の狩人奥山にて鹿を見付、城ヶ森まて追ふに異形に見へ忽見へす、

夫より雨乞か森に烏騒けるを不審におもひ彼山に登れは岩石の前に水溜り有、

立寄て見れは珠のことくなる石に風調雨順民康の六字を現んす、

時昔宮人の入玉ふ御山と聞、其故やらんと思ひ軒口やすみねむりけるに夫婦の老翁来て告云く、

我は此山の主し也、必心穢の輩入事なけれ、我を信するものはなかく堂の森に来たりて石上の六字を祈らは無実の難を救ひ幸を得さしめんと云、

畢りて岩石へ登ると見れは夢覚たり、是こそ神託なりと思ひ伏しをがみ歓喜して此郷に帰、彼森にほこらを建、奉称堂山大権現と、日ゝに参籠して国家の幸を祈る、

此子孫石見と云ふ、神子かろうと口に住みて、毎月一七日之参籠して祈念し不思議たりしとなり

此神子慶長の比卒す、

戊辰両歳七月七日廟所かろうと口にて、村中寄集して供養有る、

又宗泉寺の表に弁天と称し惣川内の神主祭之、

然るに寛永三寅春群中至て及困窮に、此社に祈誓して人民松府に出て愁訴を成す、

直に戴君恩郡中潤色にうつり、

依之此郷の氏神惣川内の社内に御神殿を移し、惣祈願所とさだめ、其後益諸の願をかけ其しるしあらすとゆふ事なし、

此餘は神慮を恐れ秘する物也、必うたかふ事なかれ

愁訴(しゅうそ):公的な手続きを踏んで役所や藩に訴えること。=正式な訴え

直訴(じきそ):手続きを飛ばして領主や将軍に直接訴えること。=直接の訴え

8.伝聞記を今の言葉に書き直してみた

堂山権現伝聞記の冒頭太古の鹿猟シーンをイラスト化

むかし、この郷の狩人が奥山で鹿を見つけ、城ヶ森(現在の狼ヶ城・ろうがじょう)まで追いかけていると、その鹿は突然姿を変えて、消えてしまいました。

その後、雨乞か森(美川峰)でカラスが騒いでいるのを不思議に思い森に登ると、岩の前に水たまりがありました。

立ち寄ってみると、水の中の丸い石に、「風調雨順民康」という六文字が現れました。

狩人は「昔、高貴な修行者の方が入られた山だと聞いている、それゆえ不思議なことが起こったのだ」と思いました。

疲れ果てた狩人が、岩陰で休んでいると夢の中に老夫婦が現れ「我らはこの山の主である。穢れた心の輩(けがれた心のやから)は、この山に入ってはならぬ。我らを信じるものは、堂の森に来て『風調雨順民康』と祈れば、 身に覚えのない苦難に遭っている人々に、幸せがもたらされるであろう。 」と告げました。

老夫婦の話が終わると、狩人は岩に登って、景色を見渡したところ、まるで目が覚めたかのように、現実に戻ったことに気づきました。

狩人は、これを神のお告げと信じ、深く頭を下げて拝み、喜んで村に帰りました。

その後、この森に祠を建て、堂山大権現として祀り、国の安泰を祈りました。

江戸時代の堂山権現聖地のイメージ画像

狩人の子孫は石見と呼ばれ神子として「かろうと口」に住み、毎月17日に堂にこもって祈りを捧げ続けたところ霊験あらたかでした。

神子は慶長年間に亡くなりました。

村中の人たちは、戊辰両歳(ぼしんりょうさい)七月七日、「かろうと口」に集まり、神子を供養しました。

また、宗泉寺の前には「弁天」と称する仮の名の祠が設けられ、惣川内神社の神主がその祭祀を行いました。

それなのに、寛永三年の春(1626年2月)村は深刻な困窮状態に陥りました。

そこで、奥山の雨乞か森にある堂山大権現に祈りを捧げ、誓いを立てた上で松山に赴き殿様に訴えを申し立てました。

その結果、殿様の恩恵により村中の暮らしが潤い、皆が安泰に暮らせるようになりました。

この出来事を受けて、堂山権現は惣川内神社に移され総祈願所として祀られることになりました。

その後、多くの願いをかけ、そのすべてに効果が現れたと言われています。

このことは神のご意思を恐れて秘めていたもので、決して疑ってはなりません。

9.伝聞記とは?――「大坂夏の陣」と「佃十成の排斥運動」を伝説に仕立て上げられた史実の記録だった!

狼ヶ城 (城ヶ森)

狼ヶ城 (城ヶ森)

「伝聞記」では、村の狩人が奥山の「城ヶ森」まで鹿を追い、不思議な出来事に遭遇します。

城ヶ森は、大川から見上げると堂々とそびえ、まるで城郭のようにも見え、「大坂夏の陣」の大坂城になぞらえて名付けられたと考えられます。

物語に登場する鹿は、神や精霊が姿を変えて伝説の始まりとして語られているように見えますが、実はこの鹿は佃十成を象徴した存在です。

ここで描かれる「鹿」は、佃の兜を指す象徴表現と見ることができます。

戦国武将が身につけた武威を示す兜の姿と、佃の戦場での姿とが重ねられたのでしょう。

また、狩人は佃の指揮下で命を預けて戦った、土居・船草を代表とする久万山軍勢を置き換えたものです。

狩人という設定は、獲物を追い危険に挑む姿が戦場での行動に重なりやすく、軍を統率した佃に仕え、行動を共にした戦を物語として伝えるのに適していました。

「城ヶ森まで追う」は、敵陣や大坂城への攻め込みを表しています。

「異形に見へ忽(たちまち)見へす」は、戦況の急変によって佃が川に沈み、姿を消す場面を示していると考えられます。

カラスの鳴き騒ぎは、川に沈んだ佃に気づいた兵士たちの動揺やざわめきを暗示しています。

その騒ぎに導かれるように土居と船草が舟を操って近づき、やがて沈んでいた佃を救い出す場面へとつながっていくのです。

そして、その直後に描かれる『水溜り有』の場面――これは川の水面の描写を指していると考えられます。

そこで現れた『風調雨順民康』という六字は、佃が恩義を誓った温情とも重なり合い、「天下泰平、戦の果てに訪れる安泰の世、民の安らぎ」を願う言葉として受け止められます。

村人たちにとっては、「支配の改善」や「困窮からの救済」への期待と深く結びついていたのでしょう。

  • 狼ヶ城の山並みによみがえる戦場の大阪城

物語は佃の暴政の時代へと移ります。

疲れ果てた狩人が岩陰で休んでいると、夢の中に年老いた夫婦が現れ、自らを「この山の主だ」と告げました。

堂山権現伝聞記の夢の中に現れた老夫婦

年老いた夫婦とは、仲睦まじく、長く穏やかに生きてきた人生の象徴であり、“平和で正しいもの”を体現する存在と見ることができます。

その老夫婦は「心穢れた輩は堂の森に立ち入ってはならぬ」と、厳しい言葉を残しました。

この一言には、ただならぬ怒りと深い悲しみが込められており、恩義を踏みにじり、信仰心もなく、利己的にふるまう者や、人の尊厳をも顧みないような振る舞いへの痛烈な非難と受け取ることができます。

その「心穢れた輩」とは、村人の平穏を乱した佃十成とその配下の者たちではなかったのでしょうか。

実際、村人の苦しみを顧みず、自らの利権を優先した佃のふるまいは「心が穢れた輩」という言葉と重なります。

ここで語られる“穢れ”は、宗教的な穢れではなく「人としての清廉さ」や「道義の欠如」を意味しているように見えます。

山の主の老夫婦は「堂の森までも、佃の支配は許さない」と声を上げたように感じられます。

また、「我を信ずる者は、幸を得さしめん」という言葉は、村人たちが願う「風調雨順民康、つまり(平穏な暮らし)」の回復を象徴しているようです。

それは、佃一派の横暴によって失われた日常への切実な願いだったのでしょう。

久万高原町大川の江戸時代風景

さらに注目すべきは、この批判が“神託”という形式で記されている点です。

名指しを避けることで、権力によって封じられることなく伝えられ、さらに「狩人〜子孫〜慶長」といった太古からの時間の流れを挟むことで、佃との直接的な関連性をぼかし、特定を避ける工夫がなされているとも考えられます。

加えて、「戊辰両歳七月七日供養」という記録は、寛永三年(1626)の直前には戊辰の年は存在しません。

最も近い戊辰は寛永五年(1628)で、愁訴からは2年後にあたり、愁訴成就後に行われた供養として記した可能性があります。

こうすることで、時系列的なつながりを見えにくくするためだったのでしょう。

このようにして、伝聞記は巧みに時と人物をぼかしながらも、後世に伝わるよう意図された可能性があるのです。

「直に戴君恩郡中潤色にうつり」は、形式上は殿様・加藤嘉明の慈悲と読み取れますが、実際には村人や庄屋の行動、さらに殿様の別の家来(堀・足立)の調停が大きな役割を果たしたと考えられます。

愁訴の翌年に松山藩主となった蒲生忠知の施政――久万山に地方知行制を敷かず、従来の過酷な支配を改めた方針――が、人々の記憶と重なり「戴君恩」として描かれた可能性もあるでしょう。

愁訴の成功は単なる殿様の慈悲によるものではなく、久万山の人々の必死の行動と、時代の変化が重なり合って実現した大きな転機であったのです。

“心穢れた輩”という一語に込められた当時の村人たちの苦悩と静かな抗議の声――。

それこそが、「石碑に刻まれた伝聞記」の核心なのかもしれません。

伝聞記は、写しをとるために他の村の庄屋に貸し出された記録も残されています。

そしてこの伝聞記は、当時の悪政を後世に伝える、きわめて貴重な証言資料でもあると考えられます。

さらに、「寛永三年ニ久万山惣百姓中、目安ヲ以訴」と題された目録も残されており、そこには久万山領民全員の署名が添えられていたことでしょう。

9-1伝聞記に登場する「石見」と「大坂夏の陣」

伝聞記には、石見と言う人物が堂山権現の祭祀を担い、「慶長の比卒す(慶長のころ亡くなった)」と記されており、年代の特定をあえて明記していない表現が用いられています。

この「慶長の比」という表現は、慶長20年(1615年)に起きた大坂夏の陣と重なります。

大坂夏の陣の情景

この戦では、伊予松山藩主軍も参戦し、その軍勢の一部として、久万山から動員された部隊も加わっていました。

当時、久万山は六千石を領しており、軍役の基準からすれば100人規模の兵が動員されたと考えられます。

記録に名を残しているのは、代表格の土居と船草の二名ですが、実際には彼らと行動を共にした従者や同郷の兵を含む、小規模ながらも軍事訓練を積んだ実戦的な一団が従軍していたとみるのが自然です。

そして、伝聞記に登場する石見も、その一団に加わり、出陣していた可能性があります。

石見は、精神的な支柱として部隊に信頼され、佃の救助にも関わった人物であり、その死は深く惜しまれる出来事であったと想像されます。

彼が従軍中、あるいは佃の救助にあたる過程で命を落とした――その出来事が「慶長の比卒す」と記されたのではないか、と推測します。

10.なぜ堂山権現が選ばれたのか?

最後は、ついに、

「なぜ堂山権現なのか?」という最大の謎に迫ります。

考えるられる三つの理由を通して村人たちの祈りの本当の意味が見えてくるかもしれません。

――久万山には多くの神社や寺があるのにどうして堂山権現なのでしょうか?

なぜ堂山権現だったのか

イメージ画像です。

  1. 久万山にある神社や寺院などの祈りの場は、佃によって支配され、彼の意向に沿うかたちで祭祀が行われていた。
  2. 村人たちは、堂山権現に「慈悲」の教義を見い出し、救いを求めた。
  3. 堂山権現は、佃の関知しない奥山にひっそりと鎮まり、この地域でも最も古く、別格の祈りの場とされていた。

「又宗泉寺の表に弁天と称し惣川内の神主祭之」――『堂山権現伝聞記』より

この一節からは、次のような姿が浮かび上がります。

惣川内神社の神主は、本来なら自らの奉仕する惣川内神社に赴いて祈祷するのが常識です。

ところが、地形的に神社を一望できる川向いの宗泉寺の表に「弁天」と称する祠を設け、佃の関係者の目を欺きながら、その祠越しに惣川内神社の神殿へ向かって祈っていた――いわば「隠れ祈祷」ともいうべき姿が読み取れます。

これは、佃が領主として寺社に寄進を重ね、それらを自らの支配下に置いたため、地元の神主が本来の座を追われ、神社に近づくことすらできなかった結果ではないでしょうか。

佃は久万山の神社や寺院に寄進した記録が残っており、惣川内神社も例外ではなかったと考えられます。

こうした寄進は領地支配の安定を目的とした統治戦略であり、専属の神職や僧侶を招いて宗教をも取り込み、領民支配の体制を強固にするものでした。

寄進の内容は、金銭や社殿の建立・再建にとどまらず、石燈籠や鳥居、幟や奉納額など、視覚的に権威を誇示するものだったと想像されます。

当時の惣川内神社には佃奉納の幟旗が立っていたかもしれませんし、場合によっては神社そのものが一時的に閉鎖を強いられていた可能性すらあります。

形式上は村の神社であっても、実質的には佃の権威が及ぶ「お上の神社」「支配者の神」と化し、村人たちにとっては本当の願いを託せる場ではなくなっていたのでしょう。

だからこそ、佃の権威の及ばぬ奥山に鎮まる、菅生山大宝寺ゆかりの歴史ある堂山権現。

村人たちは、慈悲と正義を兼ね備えたその霊験あらたかな存在にこそ、願いを託し、誓いを立てたのでしょう。

久万高原町大川嶺から見た狼ヶ城

聖地から久万高原町方面を望む。左側奥に見える小高い山は狼ヶ城です。

聖地から標高差約400m下った岩山の頂にある堂山権現中宮社

この中宮社へは、車で近くまで行くことができます。

11.堂山権現――太古の御神体をめぐる考察

堂山鎮守社の現在の御神体は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とされています。

堂山権現は、大宝元年(701年)に再建されたと伝えられており、その際、同年に創建された菅生山大宝寺が神の加護を祈る儀式を執り行い、再建の指揮は国司(現在の県知事)小千宿弥玉興(おちのすくねたまおき)によって執られたとされています。

こうした関係から考えると、堂山権現の太古の神霊は、大宝寺の本尊と同じ十一面観世音菩薩を本地とする神だった可能性があるのではないかと思われます。

ちなみに、大川の宗泉寺の本尊は、臨済宗東福寺派の寺院でありながら、密教系(真言宗や天台宗)で重んじられる十一面観世音菩薩とされています。

臨済宗東福寺派では通常、釈迦如来や達磨大師を本尊とすることが多く、それと比べても観音菩薩を本尊とするのは非常に異例と言えるでしょう。

これは、宗派が変わったあとも、それ以前の本尊が受け継がれたためと考えられます。

大川村の宗派は、真言宗から現在の臨済宗東福寺派へと移り変わってきたとみられ、そこには時代ごとの政治的・文化的影響が背景にあったと考えられます。

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