


450年前から残る石塚
久万高原町大川の山中に今も残る戦国の悲劇――それが「ほうじが峠」の伝承です。

この記事でたどる歴史
ほうじが峠の石塚と土居家に伝わる供養の習わし
「ほうじが峠の石塚」にまつわる伝承
大川では、前年のお盆から今年のお盆までに亡くなった人がある家では、その後三年間盆月の間、故人を偲ぶために白い木綿の旗をお寺に持参し、供養の文字を書いてもらうのが習わしでした。
その旗は、庭先に立てた青竹さお(先端部を切って枝葉をさお先に少し残した生の竹)に結びつけ、流れ旗のように立てられ、日没からは提灯(ちょうちん)を灯して供養しました。

代々の土居家では、新仏がいない年であっても、玄関脇の灯を絶やすことはありませんでした。
その背景には、先祖が戦に敗れ、あの山の向こうからこの地に逃れて住み着いたという由来があります。
敗走の際、信頼する配下二人が土佐の軍勢に捕らわれ、打ち首になる運命となりました。
二人は「せめて主人の居所の見える地で討ってほしい」と願い、ほうじが峠まで連れて行かれ、その地で斬られたと伝えられています。

今もその場所には石を積んだ墓が残り、かつての土居家では、お盆になると生竹の花立や供物を「おいこ(背負子)」に背負い、墓参りをしていました。
山中のため、雑草や蔓(つる)が絡みついた墓石周りを鎌で刈り払い、きれいに掃除して供物を備え、供養していたと伝えられています。


▲かつての刑場にひっそりと佇む石塚。
戦国に散った命を今に伝える。


▲円形ストーンサークル内の奥にある「先端の尖った石塚部分」のみが当時の遺構です。円形サークルの石や、右側の横長石碑、手前の縦長墓石、一番奥の石碑は、平成21年(2009年)に新しく整備されたものです。
北緯33°35′53″ 東経132°54′45″
現地は大川地区簡易水道施設から尾根筋の山道を登り詰めた場所に位置しています。
なお、ここは公の地図に示されている、小田・内子との境にある「ほうじが峠」の位置ではありません。
天正二年(1574年)の「笹ヶ峠の戦い」と大川へ逃れた土居一族

江戸時代の前の戦国時代、伊予の国を治めていたのは河野氏でした。
土佐の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)が伊予に侵攻してきた際、久万山方面の防衛は河野氏の家臣である菅生・大除(おおよけ)城主・大野直昌(おおの なおしげ)が担当し、大除城を拠点として周辺40余りの支城を統括していました。
大野直昌の家臣であり、小田・本川城主でもあった土居方玄(どい まさつね)らが参戦した天正二年(1574年)の「笹ヶ峠の戦い(大野ヶ原の戦い)」で、大野軍は敗れ、方玄(まさつね)は討死しました。

▲木立の向こうに見える大川嶺の先方に大野ヶ原があります。
この天正二年といえば、中央では織田信長が急速に勢力を広げ、日本中が過酷な動乱の渦に包まれていた時代です。
その激しい戦では、土佐方の戦死者は約80名に上り、大野方では兵士約700名と、大野四十八家の城主や家臣たちの過半数(約80名)が討死しました。
土居一族はこの戦で敗れ、山中の戦略上の潜伏拠点である大川に逃れ、やがてここに定住しました。
土居家の城は、この尾根伝いに西へ向かった隣村、小田の本川城に置かれていましたが、戦時下においては、大川を補給や中継地点として利用することで、各城と戦場を結ぶ重要な位置にあったのでしょう。
大野ヶ原からこの地へと続く逃走ルート上には、途中で息絶えた者を葬ったと伝えられる石塚が存在するそうです。
現在、石塚のある場所は木々に囲まれていますが、視界を遮るものがなければ大川の景色を一望でき、峠道の中でもこの場所のみが平坦であったため、見張りや中間基地に適した地理的な位置であったと考えられます。
また、この峠道から大川集落につながる複数の山道の入り口には、現在も当時に由来する姓が多く残っています。彼らは当時、村への入口防衛を担っていたのではないでしょうか。
近年まで石塚への墓参も行われていましたが、今では訪れる人も途絶えたと思われます。
凄惨な戦国の現実の中で散っていった二人の存在や、かつて彼らを悼んだ人々の想いさえも、風化の波に飲み込まれ遠い過去へと消え去っていくのでしょう。

▲五衛門と嘉衛門の墓(平成21年に建立された名前入りの石塔)
散っていった忠臣を追悼する―平成21年に刻まれた碑文

▲斬首された土居氏の配下、五衛門と嘉衛門の歴史的経緯や伝承を簡潔に伝えるため、平成21年に建立された石碑。
碑文天正二年(1574年)土佐長宗我部元親と伊予大野直昌、土居方玄らの戦いが笹峠であった。
伊予勢は戦いに負け土居一族は大川に落ち延びた。
その時逃げ遅れた手下、五衛門と嘉衛門は敵方に捕らわれ打ち首にあうことになった。
捕虜になった二人は「打ち首は仕方ないがせめて主人の所在が見える所で」と懇願しここホージカ峠まで連れてこられ打ち首になり埋葬されたと伝えられる。
近年風化がはげしくなったため当時を偲び、二人の霊を慰めるため整備した。
碑文は「五衛門・嘉衛門」と刻まれていますが、当時の正式な表記(本名)としては「五右衛門・嘉右衛門」であったと考えられます。
碑文から読み解く斬首の真相と「美談」の裏側
石碑文に記された二人の最期には、美談の裏に隠された戦国期の冷徹な現実と、後世の供養の歴史が透けて見えます。
当時の過酷な戦況を考慮すると、敵兵が捕虜の願いを聞き入れてわざわざ移動させたとは考えにくいと言えます。
そもそも、「主人の見える場所へ」という嘆願は、軍事的に見れば隠れ潜む主君や味方の潜伏場所を敵に暴露する裏切り行為に他なりません。
仮に、敵に潜伏先への「道案内」を強引にさせられ、大川へ逃れた軍勢への「見せしめ」としてこの地で処刑されたのだとしても、結果的に道案内をした形となり忠義に反してしまいます。
もし本当にそのような言動があったとすれば、土居家にとって二人は「一族を危険にさらした裏切り者」となり、450年もの間代々手厚く供養され続けることなど到底あり得ないはずです。
一方で、負傷した二人がこれ以上の逃亡は不可能と悟り、捕虜となる辱めを避けるとともに、自身が足手まといとなって一行が全滅するのを防ぎ仲間の命を守るため、主君(方玄[まさつね]の息子・当時11歳の方貞[まささだ])のいる大川を望むこの峠で仲間に介錯を頼んだという、極限状態における決断であったとも推測されます。
当時は、敵に生け捕りにされて逃亡先や味方の情報を引き出すための激しい拷問を受ける恐怖、そして首を奪われて敵の手柄にされる屈辱を防ぐため、身内に首をはねてもらうことは「最後の情け」としてごく一般的な選択でした。
しかし、戦国の世が終わり天下泰平の時代に入ると、身内が手をかけたというあまりに過酷な事実をそのまま語り継ぐことは忍びなく、また憚(はばか)られるものでもありました。
だからこそ、過酷な現実を和らげて二人を手厚く供養するために、「敵兵に頼んで主君の見える場所で最期を迎えた」という心温まる物語へと表現を変えて伝承されたのではないでしょうか。
あるいは、二人は大川へ逃れる主君を安全に逃がすため、追撃する敵をこの峠で待ち伏せ「殿(しんがり)」として立ちふさがって散ったという可能性も考えられます。

配下の死という理由だけで、450年もの長きにわたり供養を続け、墓を守り続けることは到底不可能です。
この石塚に伝わる「主人の見える場所を望んだ」という美談は、命をかけて幼い主君や一族を守ってくれた二人への言葉に尽くせぬ感謝と、末永く供養し続けるという強い誓いから生まれた物語だったのではないでしょうか。
戦場の実態がどのようなものであれ、450年もの間絶えることなく守られてきたこの石塚には、時代を超えて受け継がれてきた温かく強い思いが込められていると感じられます。
史実の過酷さと「優しい物語」に託された地域の人々の想い
実は、大川の地域伝承には、過酷な現実を美談へと昇華させた同様のケースが見られます。
それが、今回の石塚と同じく土居家ゆかりの歴史を持つ、『美川村二十年誌』に掲載された『堂山大権現伝説』です。
この伝説は、「江戸時代初期の久万山における過酷な悪政」を基に作られたものですが、語り継がれている内容は史実とは大きく異なる、創作された美談となっています。
いずれの伝承においても、本来は厳しい立場にあるはずの「敵」や「支配者」が、どこか温情ある優しい存在として描かれているのが特徴です。
実際の史実が非常に凄惨で過酷なものであったからこそ、後世の人々はそれを優しい物語へと変える必要があったのかもしれません。
見守るように石塚の背後に建立された「万葉集の歌碑」

万葉集の歌碑
山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴
やまぶきの たちよそひたる やましみづ くみにゆかめど みちのしらなく
山吹の花に彩られた清水に水くみに行きたいが 道が分からない
なぜ万葉集の歌が刻まれているのか
この碑に刻まれた万葉集の歌は、飛鳥時代の高市皇子(たけちのみこ)(654年〜696年)が、30歳前後の若さで亡くなった異母姉・十市皇女(とおちのひめみこ)の死を悼んで詠んだ「挽歌(ばんか=追悼の歌)」です。
二人はともに天武天皇(てんむてんのう)の子であり、同じ父を持つ非常に仲が良い姉弟(お姉さんと弟)でした。波乱の人生を歩み若くして逝った姉を想い、深い悲しみに暮れた弟の高市皇子がこの歌を遺しました。
「山吹の花に彩られた美しい清水を汲みに行って逢いたいけれど、そこへ至る道が分からない」という歌詞には、「亡き人のもとへ行って救いたい・供養したいけれど、あの世へ行く道は分からない」という、生者の切ない哀悼の情が込められています。
建立された方がこの歌を選んだ背景には、次の想いが重ね合わされていると考えられます。
- 忠臣への鎮魂の祈り
戦国の動乱の中で無念の斬首となった二人の忠臣(五右衛門・嘉右衛門)の霊を、古代から伝わる最高峰の追悼の歌をもって手厚く慰めるため。 - 山深い石塚のロケーション
人里離れた険しいほうじが峠の山中にひっそりと佇む石塚の情景と、歌に詠まれた「道が分からぬほどの山奥」というイメージが見事に一致するため。
遥かな時を超え、無念の最期を遂げた死者を想い、山奥の石塚へと心を寄せる人々の強い供養の心が、この万葉集の歌に託されています。

▲平成二十二年八月 建立 万葉集巻二の一五八
【筆者エピソード】
実は筆者も縁があり、かつて記念碑の建立者様からのご依頼で、この地に供養道具を運ぶための木製「おいこ(背負子)」を製作させていただいた経緯があります。
整備当時は現地を訪れることができませんでしたが、ずっと気になっており、2025年10月に初めて足を運びました。
この場所を知っている方の情報とおおよその位置を頼りに巡り、無事にこの地を発見することができましたが、道を探しながら山中を迷い歩いたあの時間は、まさに万葉集の歌にあるような「見知らぬ道を行く心細さと旅情」に重なるものがありました。
土居方玄 討死後の子孫たちの歩み
土居 方玄
(まさつね)
土居 方貞
(まささだ)
土居 方徳
(まさのり)
土居 方純
(まさずみ / 三郎右衛門)