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久万高原町大川の歴史秘話【大坂夏の陣の武功むなしく】

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久万高原町大川の歴史秘話【大坂夏の陣の武功むなしく】

久万高原町大川の歴史秘話【大坂夏の陣の武功むなしく】

この記事は、久万高原町にゆかりのある方や、ご存じの方に向けて書かれたものです。

1.堂山鎮守社に眠る、知られざる過酷な村の歴史

久万高原町大川の「堂山権現鎮守社」伝えたい郷土の歴史

愛媛県上浮穴郡久万高原町大川八柱神社(旧:惣川内神社)の境内にある堂山鎮守社。

今年、修復工事が行われ、大工さんの手で新しい柱に入れ替えられました。

機会があれば、ぜひ訪れてみてください。

かつてこの社は、「堂山権現惣祈願所」と呼ばれ、人々の信仰を集めていたと伝えられています。

しかし、明治時代の神仏分離令により、堂山権現は廃社の危機に直面したのではないでしょうか。

久万山では、明治の改革によって、藩の命令で堂が焼き払われたり、さまざまなデマが広まって、ついには暴動にまで発展したとも伝えられています。

そこで呼称を「堂山鎮守社」と改め、仏教由来の「権現」という名前を表に出さず、守り続けたものと推測します。

また、『美川村二十年誌』には堂山大権現伝説という題名で、寛永三年、(1626年)の出来事をもとにしながらも、歴史とは異なる伝承が語られています。

伝説のあらすじは――、豪雪による不作で、年貢を納められなかった村人が、松山の殿様に直訴し、打ち首を命じられたものの、堂山権現のご加護によって許され、土産を持たされて無事に村に帰った、と言う話です。

この話を、かつて神社氏子総代を務めた長老は、昔、「○○のござおいさんから聞かされた」といいます。

寛永三年に起きた本当の出来事は、伝説よりもはるかに過酷なものだったようです。

村の厳しい暮らしの陰には、徳川と豊臣の最後の決戦である「大坂夏の陣」に、村人の平穏な暮らしの回復を願い、命を懸けて参戦した大川と日野浦の若武者たちの忠義と武功がありました。

しかし、その武功も空しく、彼らを待っていたのは、村を苦しめる過酷な運命だったのです。

江戸時代の久万高原町大川の風景イメージ画像

久万高原町大川の初夏の風景

久万高原町大川の雪景色

久万高原町大川地区――時を越えてなお、変わらぬ風景が過去と未来を静かに結びます。

2.その歴史とは――「佃十成の排斥運動」と言われる事件です。

佃十成(つくだかずなり)という久万山の支配者を辞めさせようとした動きが、実際に起きた事件として伝わっています。

この出来事は、現在の久万高原町が公開している資料『藩政時代の久万』に記されています。

その 「佃十成の排斥運動」 の中には、権現伝説と同じ「寛永三年」という年号が登場し、年号がピタリと一致しているのです。

さらに、堂山鎮守社に建てられた石碑の文面にも、同じ「寛永三年」の文字が刻まれています。

――つまり、「寛永三年」という年号を通して伝説、史実、石碑の三つが一致し、「佃十成」という人物で一本の線につながっているのです。

ただし、「佃十成」という名前が登場するのは、史実に基づく記録のみであり、伝説や石碑文には名前は記されていません。

堂山鎮守社の「堂山権現伝聞記」が刻まれた石碑

寛永三年と刻まれた石碑――いったい、そこには何があったのでしょうか。

3.「佃十成の排斥運動」 とは次のような出来事です。

伊予松山藩の松山城(加藤嘉明築城)

江戸時代の初め、松山と名付けて城を築き、町並みを整備し、石手川の氾濫対策工事を行ったのが、伊予松山藩初代藩主の殿様・加藤嘉明(かとう よしあき)です。

その殿様の家来の一人であり、かつては戦国武将として名を馳せた佃十成という人物が、現在の久万高原町一帯の領地とその収益を治める「知行制」により、久万山の支配者としての役目を与えられました。

当時の久万山一帯は伊予松山藩に属しており、藩内で唯一「地方知行制(じかたちぎょうせい)」という特別な支配体制が敷かれていました。

なぜ久万山だけが特別な体制を定められたのでしょうか。

久万山は戦国の気風を色濃く残す地域で、多くの山城の城主の子孫やその家臣、武勇に優れた士族の子孫たちは、政治の体制が変わった後もこの地にとどまり、農作業に励みながら静かに暮らしていました。

そうした背景から、殿様や佃にとっても、当初の久万山は決して油断ならぬ地域であり、警戒を強めざるを得なかった事情があったのでしょう。

いくらそのような事情があったにしても、村人と触れ合っていけば人柄は分かるはずです。

それなのに、佃のやり方はあまりにもひどく、村人たちは日々苦しめられていたのです。

高い年貢を課すだけでなく、大川村 ・西明神村・菅生村・畑野川村の自身の所有地では百姓を責め立て、強制的に働かせて財を築きました。

すでに泰平の世に入ったはずの江戸時代にもかかわらず、まるで戦国の乱世で敵地を奪った悪しきのごとく、容赦なく振る舞い、言葉では尽くしがたいほどの悪政を重ねた佃と、その配下たちの姿が浮かび上がります。

「草木一本に至るまで領主のもの」とされた時代、農民の自由はおろか、女性や子ども、老人たちも声なき存在として扱われた、まさに苦しい時代だったと思います。

こうした姿は、力を持つ者がその力を自らのために使うとき、いつの時代も繰り返される苦しみのかたちにほかならず――現代においても、支配や強権による理不尽な状況が報じられぬ日はありません。

人の世はどれほど時を経ても、なお学びきれぬ儚さを抱えているのかもしれません。

久万山支配者の百姓への厳しい扱い

さらに、追い打ちをかけるように、久万山の百姓を毎日松山の広大な屋敷に呼びつけ、過酷な労働をさせていたのです。

松山までは道のりは約40km。

車のない当時、徒歩で向かうだけでも丸一日かかるような過酷な移動でした。

久万山領民を苦しめて築かれた佃の屋敷は、「四方白壁、八棟づくり、阿波にござらぬ、讃岐に見えぬ、まして土佐には及びはないぞ、伊予に一つの花の家」

と、称されるほど、四季折々の花に囲まれた広く立派な屋敷――さらに中屋敷・下屋敷も備え、贅の限りを尽くした暮らしを送っていました。

イメージ画像です。

佃の過酷な支配によって、村人たちの暮らしは追い詰められていきました。

そこで、かつて戦場にて武功を挙げた大川村庄屋職の土居三郎右衛門(当時29歳)と、日野浦村の船草次郎右衛門の二人が久万山を救うために行動をおこしたのです。

二人は村人たちとともに立ち上がりました。

そして、松山の殿様、加藤嘉明(当時63歳)に、久万山領主の佃十成(当時73歳)の交代を訴えました。

当時の領民にとって、藩主への訴えは大きな決断であり、相当な覚悟と団結が求められたことでしょう。

殿様からの返事は、佃の息子を後継の久万山の領主とする案を示されましたが、二人は納得せず、受け入れませんでした。

その後、仲介に立った殿様の別の家来が「今後はこのようなひどいやり方を絶対しない」との証文を取り、ようやく二人は納得しました。

そして、翌年の寛永四年(1627年)殿様の加藤と佃は、ともに福島会津藩への国替えを命じられ、村人を苦しめた佃十成による久万山支配もここに終止符が打たれました。

さらに、次の殿様は、久万山に知行制を採用しませんでした。

これが、寛永三年に久万山で実際に起きた出来事です。

久万高原町大川の風景

堂山鎮守社の杜と向こうに見える狼ヶ城

久万高原町大川の全景 中央の円内が堂山鎮守社の杜

堂山鎮守社の杜

4.主君・加藤嘉明に訴える前に堂山権現に誓い、立ち上がった二人

主君・加藤嘉明に訴える前に堂山権現に誓い、立ち上がった二人

イメージ画像です。

土居と船草は、松山の殿様に訴える前に、奥山にある堂山権現(奥之院)へ向かい、平穏な暮らしの回復を祈願し、その願いが正しきものとして主君のご裁可を得、成就するよう誓いを立てたうえで、行動に移したものと思われます。

こうして祈願されたその願いが成就したことを、堂山権現のご加護と受け止めた村人たちは、感謝の気持ちを込めて、八柱神社の境内に「堂山権現惣祈願所」を祀るようになったものと考えられます。

久万高原町大川の堂山鎮守社

ちなみに、土居三郎右衛門の父は、かつて殿様の加藤に見込まれて、大川・有枝・日野浦の庄屋職と下坂13か村の責任者になっていました。

そんな父から、「まず、堂山権現の御前にて誓いを立て、しかる後に、松府へまいられい」と、諭されたのではないでしょうか。

堂山権現の聖地は美川峰の岩窟にあります。

信仰を集めた、堂山権現(奥之院)は美川峰の山中にあります。写真は、狼ヶ城の麓から見た美川峰です。

堂山権現の聖地は、柳谷美川線にある電子基準点『美川』から、尾根を越えてたどり着く場所です。

車がなかった昔は、大川側から山を登り、参拝していたと聞いています。

美川峰から見た久万高原町

聖地に近づき尾根を越えると、眼下には久万町内から三坂峠方面の風景が視界に広がってきます。

堂山権現聖地近辺のブナ林

美川峰の尾根を越え、ブナ林に包まれた谷筋を下った先に、静かに聖地がたたずんでいます。

堂山権現の聖地の岩窟

堂山権現が祀られた岩窟

久万高原町大川美川峰の堂山権現がある岩肌の窪み

聖地へ続く道はなく、清水の湧き出る岩肌を伝いながら進みます。

堂山権現の聖地の岩肌

今も人知れず残る、堂山権現の祈りの地

堂山権現の聖地の祠

堂山権現の聖地・奥之院――岩窟内に祀られた祠(約30cm角)

かつては木製の祠が祀られていたそうですが、時の流れの中で朽ちていったと伝えられています。

飛鳥時代より、千四百年近くにわたって祈りが捧げられてきたとされるこの地では、数え切れぬほどの木製の祠が、幾度となく建て替えられてきたことでしょう。

1980年代、朽ち果てることのないよう石造りとし、後世に伝えるために、大川上組の石工の手によって、石板を組み立て式に加工した新たな祠が造られました。

石板は分解された状態で、地域の人々が一枚ずつ背負って岩窟まで運び、現地で組み立てられた、と聞いています。

ただ、この地の存在を知る人はわずかにいるものの、実際にここを訪れる者はすでに途絶えて久しく、これから訪れる者も、おそらく私たちの世代が最後となるでしょう。

やがてこの地は、人々の記憶からも静かに消え、遠い彼方へと沈んでゆくのかもしれません。

5.「大坂夏の陣」で佃の命を救った忠義と、やがて訪れた裏切り

徳川と豊臣、天下を懸けた最後の決戦「大坂夏の陣」
その戦場に挑んだ、三人の武士――

佃次郎兵衛尉十成(伊予松山藩筆頭家老・加藤嘉明名代)・土居三郎右衛門尉方純(大川村)・船草次郎右衛門尉(日野浦村)

実は、佃・土居・船草――この三人に秘められた、驚きの“戦場での絆”の物語があったのです。

なんとこの三人、かつて徳川と豊臣が激突した「大坂夏の陣」で、同じ軍勢として戦った戦友だったのです。

そのとき、佃(当時62歳)は、指揮官として軍を率い、土居(当時18歳)と船草はその配下として最前線で戦っていたのです。

命を懸けて共に戦ったその後、まさか藩政をめぐって対立することになるとは、誰が想像したでしょうか。

そして、あの戦のさなか、敵に追われて川に沈みかけた佃を救うため、土居と船草は決死の覚悟で鉄砲と槍を手に追手を討ち取り、舟を回して佃を助け出しました。

さらに二人は、軍勢を率いた佃を守るために、退却する味方の最後尾に立ち、追っ手を食い止める“しんがり”の役目を果たしながら、数々の武功を挙げたと伝えられています。

まさに、命を預け合った戦友だったのです。

助けられた佃は深く感激し、「この恩に必ずや報いる」と、二人に誓いました。

――それから、幾年月が流れ。

かつて「この恩は必ず返す」と誓った佃。

しかしその言葉は忘れ去られ、彼は久万山の村人たちを苦しめる冷酷な支配を進め、私腹を肥やしていったのです。

当時の武士社会では、戦での忠義や勲功に対して、しかるべき恩賞や地位で報いるのが当然とされていました。

その裏切りに対する反発も、排斥運動の原因のひとつとなったようです。

来年・2026年は、久万山が解放されてから、ちょうど400年の節目を迎えます。

慶長20年(1615年)、「大坂夏の陣之図」によれば、家康や三男・秀忠と同じく南方から攻める軍勢として、佃の軍も布陣しており、秀忠の陣所に隣接して陣を構えていたようです。

布陣図には近くを流れる川も描かれており、まさにその川のほとりで、追手に迫られた佃を救出するという劇的な場面が繰り広げられたのでしょう。

この逸話を単なる戦場の一幕として片付けるのは、歴史的な視点を欠くものと言えるでしょう。

佃は、野心的で利己的な一面もあったと考えられ、一番槍の功名を狙って、先走った可能性も否定できません。

その結果、無謀な突撃で川に追い詰められ、彼ら二人に救われる事態に至ったとも考えられます。

6.堂山鎮守社にたたずむ謎の石碑

堂山鎮守社の石碑

堂山権現伝聞記が刻まれた石碑

そして次は、平成24年に建立された、堂山鎮守社にひっそりとたたずむ謎の石碑に迫ります。

この石碑には、土居家古文書に伝わる『大川村権現伝聞記』が刻まれています。

石碑に刻まれた文章は、千葉大学文学部の先生方が土居家古文書を調査された際に書き起こされたものと思われます。

およそ400年もの間、人目に触れることのなかった重要な記録です。

この石碑の建立は、おそらく、土居家先代の念願だったのではないでしょうか。

残念ながら、『伝聞記』に関する解説資料はありません。

石碑建立にも立ち会った長老も、石碑に書いてある文章の意味は知らないとのことでした。

当初、この石碑は、大川奥組の堂山権現中宮社(中之院)に建立される予定だったそうです。

大川奥組の堂山権現中宮社

大川奥組の堂山権現中宮社

しかし、中宮社はちょうどその頃に再建されたため、再建に関する内容を記した「拝殿復興の碑」が中宮社に設置され、『伝聞記』の石碑は、八柱神社境内の堂山鎮守社に置かれることになったと聞きました。

久万高原町大川奥組の堂山権現拝殿復興の碑

久万高原町大川奥組・堂山権現中宮社にある拝殿復興の碑

伝聞記の内容を踏まえても、この選択は適切であったといえるでしょう。

記された内容は、江戸時代初めに久万高原町で実際に起こった「佃十成の排斥運動」に由来すると考えられます。

この文章は、過去の歴史をすでに知っている人を前提に書かれているため、初めて読む方には話の流れや背景がつかみにくく、理解しにくい構成になっています。

とはいえ、ここまで読み進めてこられた方にとっては、すでに出来事の概要にはある程度触れており、全体像の理解に近づきやすいかもしれません。

それでは、石碑に刻まれた文章とその現代語訳、そして読み取れる範囲での解説をお届けします。

そこには、救いを求めた村人たちの願いと平穏に戻った喜びが記された物語が静かに刻まれていたのです。

7.宗泉寺の表に弁天?けがれた輩?石碑に刻まれた声「大川村権現伝聞記」

大川村権現伝聞記 年月未詳

浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記

むかし此郷の狩人奥山にて鹿を見付、城ヶ森まて追ふに異形に見へ忽見へす、夫より雨乞か森に烏騒けるを不審におもひ彼山に登れは岩石の前に水溜り有、立寄て見れは珠のことくなる石に風調雨順民康の六字を現んす、

時昔宮人の入玉ふ御山と聞、其故やらんと思ひ軒口やすみねむりけるに夫婦の老翁来て告云く、我は此山の主し也、必心穢の輩入事なけれ、我を信するものはなかく堂の森に来たりて石上の六字を祈らは無実の難を救ひ幸を得さしめんと云、

畢りて岩石へ登ると見れは夢覚たり、是こそ神託なりと思ひ伏しをがみ歓喜して此郷に帰、彼森にほこらを建、奉称堂山大権現と、日ゝに参籠して国家の幸を祈る、

此子孫石見と云ふ、神子かろうと口に住みて、毎月一七日之参籠して祈念し不思議たりしとなり此神子慶長の比卒す、

戊辰両歳七月七日廟所かろうと口にて、村中寄集して供養有る、又宗泉寺の表に弁天と称し惣川内の神主祭之、

然るに寛永三寅春群中至て及困窮に、此社に祈誓して人民松府に出て愁訴を成す、直に戴君恩郡中潤色にうつり、

依之此郷の氏神惣川内の社内に御神殿を移し、惣祈願所とさだめ、其後益諸の願をかけ其しるしあらすとゆふ事なし、

此餘は神慮を恐れ秘する物也、必うたかふ事なかれ

8.石碑の声を現代語で読み解く

堂山権現伝聞記の冒頭太古の鹿猟シーンをイラスト化

むかし、この郷の狩人が奥山で鹿を見つけ、城ヶ森(現在の狼ヶ城)まで追いかけていると、その鹿は異形の姿となり、忽然と姿を消しました。

その後、雨乞か森(美川峰)でカラスが騒いでいるのを不思議に思い森に登ると、岩の前に小さな水たまりがありました。

立ち寄ってみると、水の中の丸い石に、「風調雨順民康」という六文字が現れました。

狩人は「昔、高貴な修行者の方が入られた山だと聞いている、そのためだ」と思いました。

疲れ果てた狩人が、岩陰で休んでいると夢の中に老夫婦が現れ「我らはこの山の主である。穢れた心のは、この山に入ってはならぬ。我らを信じるものは、堂の森に来て『風調雨順民康』と祈れば、 身に覚えのない苦難に遭っている人々に、幸せがもたらされるであろう。 」と告げました。

老夫婦の話が終わると、狩人は岩に登って、景色を見渡したところ、まるで目が覚めたかのように、現実に戻ったことに気づきました。

狩人は、これを神のお告げと信じ、深く頭を下げて拝み、喜んで村に帰りました。

その後、この森に祠を建て、堂山大権現として祀り、国の安泰を祈りました。

江戸時代の堂山権現聖地のイメージ画像

狩人の子孫は石見と呼ばれ神子として「かろうと口」に住み、毎月17日に堂にこもって祈りを捧げ続けたところ霊験あらたかでした。

神子は慶長年間に亡くなりました。

村中の人たちは、戊辰前年の7月7日、「かろうと口」に集まり、神子を供養するとともに、村の平穏を祈願しました。

また、宗泉寺の前には「弁天」と称する仮の名の祠が設けられ、惣川内神社の神主がその祭祀を行い、村の安寧を祈祷しました。

それなのに、寛永三年の春(1626年2月)村は深刻な困窮状態に陥りました。

そこで、堂山大権現に祈りを捧げ、誓いを立てた上で松山に赴き主君に訴えを申し立てました。

その結果、主君の配慮により村中の暮らしが潤い、皆が安泰に暮らせるようになりました。

この出来事を受けて、堂山権現は惣川内神社に移され総祈願所として祀られることになりました。

その後、多くの願いをかけ、そのすべてに効果が現れたと言われています。

このことは神のご意思を恐れて秘めていたもので、決して疑ってはなりません。

久万高原町大川の江戸時代の風景イメージ

9.石碑文が伝えたかったこと

「伝聞記」では、鹿を追って奥山に入った狩人が、不思議な出来事に遭遇します。

この鹿は、神や精霊が姿を変えて現れたものとされ、「堂山権現」にまつわる伝説のはじまりとして語られています。

やがて狩人は、神の使いとされるカラスに導かれ、堂の森の岩山にある岩窟へとたどり着きます。

疲れ果てた狩人が岩陰で休んでいると、夢の中に年老いた夫婦が現れ、自らをこの山の主だ、と告げました。

堂山権現伝聞記の夢の中に現れた老夫婦

年老いた夫婦とは、仲睦まじく、長く穏やかに生きてきた人生の象徴であり、“平和で正しいもの”を体現する存在と見ることができます。

その老夫婦は「心穢れた輩は堂の森に立ち入ってはならぬ」と、厳しい言葉を残しています。

この一言には、ただならぬ怒りと、悲しみが込められており、信仰心もなく、利己的にふるまう者や、人の尊厳を踏みにじるような振る舞いをする者への痛烈な非難と受け取ることができます。

そのこそ、村人の平穏を乱した佃十成とその配下の者たちではなかったのでしょうか。

実際、村人の苦しみを顧みず、自らの利権を優先した佃のふるまいは「心が穢れた輩」という言葉と重なります。

ここで語られる“穢れ”は、宗教的な穢れではなく「人としての清廉さ」や「道義の欠如」を意味しているように見えます。

山の主の老夫婦は「堂の森までも、佃の支配は許さない」と声を上げたように感じられます。

また、「我を信ずる者は、幸を得さしめん」という言葉は、村人たちが願う「風調雨順民康、つまり(平穏な暮らし)」の回復を象徴しているようです。

それは、佃の横暴によって失われた日常への切実な願いだったのでしょう。

さらに注目すべきは、この批判が“神託”という形式で記された点です。

名指しを避けることで権力によって封じられることなく、伝聞記が後世に残るよう工夫されたとも考えられます。

“心穢れた輩”という一語に込められた当時の村人たちの苦悩と静かな抗議の声――。

それこそが「石碑に刻まれた伝聞記」の核心なのかもしれません。

伝聞記は、写しをとるために他の村の庄屋に貸し出された記録があります。

また、「寛永三年ニ久万山惣百姓中、目安ヲ以訴」と題された目録も残っていますから、久万山領民全員の署名が添えられていたのでしょう。

最後は、ついに、

「なぜ堂山権現なのか?」という最大の謎に迫ります。

考えるられる三つの理由を通して村人たちの祈りの本当の意味が見えてくるかもしれません。

――久万山には多くの神社や寺があるのにどうして堂山権現なのでしょうか?

10.なぜ堂山権現だったのか

なぜ堂山権現だったのか

イメージ画像です。

1.久万山にある神社や寺院などの祈りの場は、佃によって支配され、彼の意向に沿うかたちで祭祀が行われていた。

2.村人たちは、堂山権現に「慈悲」の教義を見い出し、救いを求めた。

3.堂山権現は、佃の関知しない奥山にひっそりと鎮まり、この地域でも最も古く、別格の祈りの場とされていた。

伝聞記に登場する村人たちは、佃支配の窮地から逃れるために、 惣川内神社ではなく、狩人の子孫の神子の墓に願いを託しています。

また、 惣川内神社の神主は、地形的に神社を一望できる川向いの宗泉寺の表に「弁天」と称した、見せかけの祠を設けて佃の関係者の目を欺き、その祠越しに惣川内神社の神殿に向かって祈っていたかのように読み取れます。

これは、佃が領主として神社や寺に寄進し、それらがすでに支配下にあったため、神主はその座を追われ、近づくことすらできなかったと推測されます。

地域の神仏や村人たちの心のより所に寄進を重ね、自らの加護と支配の安定を祈ったのです。

佃は久万山の神社や寺に寄進していた記録があり、惣川内神社も例外ではなかったと考えられます。

領地支配を安定させるための、統治戦略だったのでしょう。

そして同時に、村人たちが祈りを通じて不満や抵抗の意思を表すことを封じ、自分の存在感を強く印象づけようとしたのかもしれません。

寄進の内容は、金銭、社殿の建立や再建、石燈籠や鳥居、幟や奉納額など、視覚的にその力を誇示するようなものだったと想像されます。

当時の 惣川内神社には、佃が奉納した幟旗が立っていたのかもしれませんし、そもそも神社自体が強制的に閉鎖させられていた可能性もあります。

形式上は村の神社であっても、実質的には佃の権威が及ぶ場に変わり、村人たちにとっては「お上の神社、支配者の神」になったのでしょう。

「佃の息のかかった神社では、本当の願いは届かない」————村人たちは、そんな思いを抱いていたのかもしれません。

つくだの権威の届かぬ奥山に鎮まる、菅生山大宝寺ゆかりの歴史ある堂山権現。

村人たちは、慈悲と正義を兼ね備えた、その霊験あらたかな存在にこそ、願いを託し、誓いを立てたのでしょう。

11.村人たちの記憶に残る堂山権現

『伝聞記』に刻まれた言葉のひとつひとつは、権力に抗い、久万山の平和を守ろうとした村人たちの、静かなる祈りと願いの記録です。

『伝聞記』に記された村人たちの行動や言葉からは、当時の人々も現代の私たちと変わらず、平穏な暮らしや家族の幸せを強く願っていたことが伝わってきます。

佃は、国替えから8年後に会津で亡くなりましたが、松山にも墓があることから、松山への墓分けなど、本人の意思が反映されていたのかもしれません。

久万山ではその、強引な支配ぶりから村人たちに強く反発され、排斥運動まで起こされた人物でした。

静かに表舞台から退いたその晩年には、武士としての誇りの裏に、寂しさや虚しさがにじんでいたのではないでしょうか。

久万高原町大川嶺から見た狼ヶ城

聖地から久万高原町方面を望む。左側奥に見える小高い山は狼ヶ城です。

聖地から標高差約400m下った岩山の頂にある堂山権現中宮社

この中宮社へは、車で近くまで行くことができます。

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堂山権現は、大宝元年、菅生山大宝寺の建立と同じ年に再建されたと伝えられています。

その際、大宝寺が神霊を守る「神護の儀式」を行い、再建には国司であった小千宿弥玉興(おちのすくねたまおき)公も関わったとされます。

こうした関係から考えると、堂山権現の神霊は、大宝寺の本尊と同じ十一面観世音菩薩を本地とする神(本地垂迹)だった可能性があるのではないかと思われます。

あくまで私の一考にすぎませんが、そう推測することに一定の根拠はあるように感じられます。

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土居三郎右衛門(どい さぶろうえもん)/実名・方純(まさずみ) 1597~1655年

-愛媛県上浮穴郡久万高原町大川

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