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久万高原町大川の歴史秘話|大坂夏の陣、若武者の武功報われず

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久万高原町大川の歴史秘話|大坂夏の陣、若武者の武功報われず

久万高原町大川の歴史秘話|大坂夏の陣、若武者の武功報われず「石碑の謎」

久万高原町大川の堂山権現「小さな祠に込めた大きな願い、村人の祈りが歴史を変えた」

堂山鎮守社に佇む謎の石碑、そこに刻まれた、大坂夏の陣の記憶

大川の中心部から正面にそびえ立つ、地域の象徴「狼ヶ城」

久万高原町大川の狼ヶ城山

🔎【目次】

1.大坂夏の陣に村の命運を懸けた若武者たち――堂山鎮守社に眠る秘話

久万高原町大川の全景 中央の円内が堂山鎮守社の杜

久万高原町大川 中央の円内が八柱神社と堂山鎮守社の杜

久万高原町大川の「堂山権現鎮守社」伝えたい郷土の歴史

愛媛県上浮穴郡久万高原町大川、八柱神社(旧・惣川内神社)の境内にたたずむ堂山鎮守社(旧・堂山権現惣祈願所)

※ここでの「旧」は明治時代の神仏分離令以前の名称を指します。

※神仏分離令とは、明治新政府が天皇中心の国づくりを強行するため、それまで深く融合していた神道と仏教を強制的に分離した政策です。

これにより全国で貴重な仏像や寺院が破壊される「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の嵐が吹き荒れ、各地で激しい反対騒動や大混乱が巻き起こるなど、民衆の信仰を激しく揺るがした過酷な断行でした。事実、当時の久万山各地でも、お堂が焼き払われたと記録されています。

この神仏分離令の嵐から、何としても大切な、仏教由来の「堂山権現」を守り抜くため、先人たちはその激しい時代の波のなかで、名を「堂山鎮守社」へと改め、御神体の形式も神道へと変える決断をしたのではないでしょうか。

大川(おおがわ)には、この「堂山鎮守社」を含め、堂山権現ゆかりの地が三か所あります。

残る二つは、大川奥組の岩山に鎮座する 「堂山権現中宮社」、そして美川峰の岩窟に位置する祠(ほこら) 「堂山権現奥の院」 です。

八柱神社の堂山鎮守社は、2025年に修復工事が行われました。

熟練の大工さんの手によって柱は新しく生まれ変わり、その姿は次の時代へと受け継がれています。

新しい柱を目の当たりにすると、私たちは今、「時代の最前線」を生きているのだと実感させられます。

久万高原町大川の修復された堂山鎮守社(堂山権現総祈願所)

修復された堂山鎮守社(堂山権現惣祈願所)

しかし、時を遡れば、どの時代にもその時代なりの大きな困難がありました。

特に400年前、この地を生きた先人たちが置かれた状況は、現代を生きる私たちには想像もつかないほど過酷なものでした。

『美川村二十年誌』に掲載の「堂山大権現伝説」には、江戸時代の初め、寛永三年(1626年)の出来事をもとにしながらも、厳しい現実の記憶を慈愛に満ちた物語へと高め、美しく昇華させた伝承が語り継がれています。

伝説のあらすじは、豪雪による不作で年貢を納められなくなった村人が、松山の殿様へ直訴に及ぶという物語です。

直訴は重罪であり、一度は打ち首を命じられたものの、堂山権現のご加護によって奇跡的に許され、そればかりか土産まで持たされて無事に村へと帰ってきた、というお話です。

この話を、かつて神社氏子総代を務めた長老は、昔、「話し上手な  “ござおいさん” から聞かされた」と語ります。

寛永三年に起きた本当の出来事は、この伝説よりもはるかに過酷なものだったようです。

村の厳しい暮らしの陰には、徳川と豊臣の最後の決戦「大坂夏の陣」に、村人の平穏な暮らしの回復を願い、命を懸けて参戦した大川と日野浦の若武者たちの忠義と武功がありました。

しかし、その武功もむなしく、彼らを待っていたのは、村人を苦しめる過酷な運命だったのです。

江戸時代の久万高原町大川の風景イメージ画像

久万高原町大川地区――時を越えてなお、変わらぬ風景が過去と未来を静かに結びます。

久万高原町大川の初夏の風景

久万高原町大川の雪景色

2.寛永三年(1626年)、大川で重なった伝説・史実・石碑の物語

戦国の世が終わりを告げた江戸時代の初め――。この久万山を治めていたのは、初代松山藩主の筆頭家老(殿様の次に偉い人、藩のNo.2にあたる最高責任者)の佃十成(つくだ かずなり)でした。

その人物を辞めさせてほしいと、村人たちが声を上げた出来事が、他村の庄屋の記録に残されています。

長年にわたる悪政への苦しみと失望が、村人の心の中で積もり続けていたのです。

後に「佃十成の排斥運動」と呼ばれるこの行動は、ただ権力に逆らうためではなく、村の未来を守るための必死の訴えでした。

この記録の中には、堂山大権現伝説と同じ「寛永三年」という年号が登場し、年号がピタリと一致しています。

さらに、堂山鎮守社に建てられた石碑の文面(堂山権現伝聞記)にも、同じ「寛永三年」の文字が刻まれているのです。

――つまり「寛永三年」という年号を通して、伝説・史実・石碑の三つが符合し、「佃十成」という人物で一本の線につながっているのです。

堂山鎮守社の「堂山権現伝聞記」が刻まれた石碑

寛永三年と刻まれた石碑――いったい、そこには何があったのでしょうか。

初めて読むと誰もが首をかしげる、この意味深な石碑文、

実は、神社の氏子総代をも務め、その石碑建立にも立ち会った、地域の歴史に誰よりも詳しい長老でさえ、その本当の意味を知りませんでした。地域の方に尋ねてみても、「出だしから意味不明だし、現代語ではないから読めない。だから興味も湧かない」といった回答ばかりでした。

「誰も知らないこの謎を解き明かしたい」

その一心で、私は碑文の文字を見つめ直しました。

そして一つずつ暗号を解くように紐解いていくと、驚くほど鮮やかに、史実の断片と繋がっていったのです。

本記事の最終目的は、この謎めいた碑文に秘められたメッセージを読み解くことです。

ただし、いきなり碑文の文字だけを見ても、その裏に隠された真実を理解することはできません。

なぜならその文字の背景には、大坂夏の陣における衝撃の裏切り久万山を襲った息の詰まるような恐怖政治と残党狩り、そして村人たちを苦しめた容赦なき悪政という、濃密な史実のドラマが横たわっているからです。

そこで本記事では、まずこの地を揺るがした壮絶な「歴史の闇」から先にお伝えしていきます。

歴史の真実をあらかじめ頭に入れた上で、最後に待ち受ける碑文の文字と対峙すると、すべての点と線が繋がります。

3.村人が声を上げた「佃十成の排斥運動」

伊予松山藩の松山城(加藤嘉明築城)

江戸時代の初め、松山と名付けて城を築き、町並みを整備し、石手川の氾濫対策工事を行ったのが、伊予松山藩初代藩主の殿様・加藤嘉明(かとう よしあき)です。

その殿様の家来の中でも「一番の権力者」であり、かつては戦国武将として名を馳せた佃十成(つくだ かずなり)という人物が、現在の久万高原町一帯の領地とその収益を治める「知行制」により、久万山代官(支配者)としての役目を与えられました。

当時の久万山一帯は伊予松山藩に属しており、藩内で唯一「地方知行制(じかたちぎょうせい)」という特別な支配体制が敷かれていました。

なぜ久万山だけが特別な体制を定められたのでしょうか。

久万山は戦国の気風を色濃く残す地で、多くの山城の城主やその家臣、旧臣層の子孫たちがとどまり、自ら耕作に励み過ごしていました。

しかし、関ヶ原の戦いの際、殿様が徳川方に従って出陣していた留守を狙い、毛利勢(旧河野氏家臣連合軍)約3,500人の大軍が三津浜へ攻め寄せました。

この戦を「伊予の関ヶ原」とも言われています。

このとき、河野家再興を願う残党の中でも、かつて久万山の支城に関わった一部の旧臣層たちが毛利軍に呼応して荏原や久米で戦を起こしました。

殿様の留守を預かった佃は軍勢を率いてこれを鎮圧、その功績によって殿様から特に信任を受け、久万山を治める役を命じられます。

留守を守り抜き「伊予の関ヶ原」を勝利に導いた佃の功績を非常に高く評価しました。

この戦での勝利は、四国における西軍の拡大を阻止した重要な一戦として徳川家康の耳にも届きました。

主君である殿様の面目を保っただけでなく、徳川幕府成立の大きな貢献者として、佃の名は中央にも知られることとなりました。

松山藩は家康から伊予20万石へ加増され、これに伴い佃も久万山6,000石という、家臣団の中でも破格の待遇を与えられました。

これは一介の家臣としては「大名級」に近い異例の厚遇です。

久米の戦いでは首に鉄砲傷を負い、弾が体に残ったまま生き延びた佃にとって、この任は久万山残党の鎮圧と戦功ゆえの任命でもありました。

こうした経緯から、久万山は単なる一山村ではなく、旧河野氏残党とのつながりを断ち切るための象徴的な地とされ、他の地域以上に特別な体制を敷かれることになったのです。

その背後では、容赦ない残党狩りをはじめ、連合軍に関わった者への厳しい追及や見せしめとしての処刑、拷問、弾圧、抹殺など、凄惨な掃討・粛清が行われていたと考えられます。

関係者を匿(かくま)えば、同罪とみなす張り詰めた空気が地域を支配していました。

加えて、佃の配下たちは、主人に鉄砲傷を負わせた者の探索や責任追及を口実に、領民に対して強い疑念や憎しみにも似た感情を抱いていたのかもしれません。

人々は些細な言動ひとつで疑いをかけられ、連行や折檻、財産の没収、家族を巻き込んだ制裁、さらには賞金目当ての密告や無実の罪を着せられることなどに怯えながら、暮らしていたのかもしれません。

村全体に張り詰めた恐怖が広がり、誰もが声を潜めて生きるしかなかった――そんな悲惨な時代背景が浮かび上がってきます。

伊予の関ヶ原で、久万山から旧河野家臣連合軍に加わった関係者の一部は、石鎚山系・面河の奥山に身を潜めていたと伝わります。

しかし、執拗な追及の手は緩みません。

佃一派らによる統制のもとで、久万山領民に課せられたのは、重い年貢だけではありませんでした。

佃は大川・西明神・菅生・畑野川などかつての有力者の多く残る村に自ら所有する手作地を設け、百姓を責め立てて、過酷な労役を課しました。

狙いは、有力者の息のかかる土地を奪い、抵抗の意志をくじき、莫大な権益を得ることにあったのでしょう。

すでに泰平の世に入ったはずの江戸時代にもかかわらず、まるで戦国の乱世で敵地を奪ったかのような悪しき一派のごとく、容赦なく振る舞い、言葉では尽くしがたいほどの悪政を重ねた佃一派。

「草木一本に至るまで領主のもの」とされた時代、農民の自由はおろか、女性や子ども、老人たちも声なき存在として扱われた、まさに恐怖と苦しみの時代であったのです。

こうした姿は、力を持つ者がその力を自らのために使うとき、いつの時代も繰り返される苦しみのかたちにほかならず――現代においても、支配や強権による理不尽な状況が報じられぬ日はありません。

人の世は、どれほど時を経ても、なお学びきれぬ儚さを抱えているのではないでしょうか。

久万山支配者の百姓への厳しい扱い

さらに、追い打ちをかけるように、久万山領民を毎日松山の広大な佃の屋敷に呼びつけ、過酷な労働をさせていたのです。

松山までの道のりは、往復で約100km(片道約50km)。

車のない当時、徒歩で向かうには日の出前に出発し、かなりの早足で歩かなければ日暮れまでに到着できないほど過酷な行程でした。

久万山領民を苦しめて築かれた佃の屋敷は、「四方白壁、八棟づくり、阿波にござらぬ、讃岐に見えぬ、まして土佐にはおよびはないぞ、伊予に一つの花の家」と、称されるほど、四季折々の花に囲まれた広く立派な屋敷――さらに中屋敷・下屋敷も備え、贅の限りを尽くした暮らしを送っていました。

豪華な屋敷

過酷な支配に加え、不作の年もあり、村人たちの暮らしは次第に追い詰められていきました。

こうした状況から考えると、久万山は極度の困難に追い込まれていたと考えられます。

村々は貧困にあえぎ、病に苦しむ者、食糧難による病死者や餓死者、子売り・身売り、赤子の間引きや口減らし、自害や一家心中、さらには翌年の命綱である種籾さえ食い尽くすような惨状に至り、もはや打つ手もなく、生きる術を失うほどの困窮の極みに陥っていたと推測されます。

そこで、大川村庄屋職の土居三郎右衛門(当時29歳)と、日野浦村の船草次郎右衛門の二人が、寛永三年(1626年)、久万山を救うために行動を起こしたのです。

二人は村人たちとともに立ち上がりました。

そして、松山の殿様、加藤嘉明(当時63歳)に、久万山領主の筆頭家老、佃十成(当時73歳)の交代を訴えました。

当時の領民にとって、藩主への訴えは大きな決断であり、相当な覚悟と団結が求められたことでしょう。

通常、領民に許された訴えは、年貢の減免や一時的な負担の軽減にとどまりました。

ところが、領主であり、筆頭家老でもある人物の交代を求めることは、前代未聞の不敬の極みでした。

処刑すら覚悟しなければならない、命を懸けた行動だったのです。

それは、殿様自らが任命した領主・佃十成に異を唱える行為であり、殿様の人事に口を出すことは、殿様に逆らう無礼として重罪に問われかねない危険があったのです。

地方知行制のもとで領主交代を願うことは、小藩の殿様を取り替えてほしいと訴えるに等しく、それを実行したこと自体が、久万山の困窮の深刻さを物語るものです。

殿様からの返事は、佃の息子を後継の久万山領主とする案を示されましたが、二人は納得せず、受け入れませんでした。

その後、仲介に立った殿様の別の家来二人が「今後はこのようなひどいやり方を絶対させない」との証文を取り、ようやく二人は納得しました。

そして翌年の寛永四年(1627年)、松山城の完成を待たずして、殿様と佃はともに福島県会津地方(会津藩)へ国替えを命じられました。

こうして、村人を苦しめた佃十成による久万山支配も終止符を打ったのです。

さらに、次の殿様は久万山に知行制を採用しませんでした。

この事実は、排斥運動とその影響がいかに大きかったかを物語っているといえるでしょう。

2026年は、久万山が解放されてから、ちょうど400年の節目を迎えます。

殿様の家来にはこんな人も――民に慕われたもう一人の重臣・足立重信

殿様の家来にはこんな人も――民に慕われたもう一人の重臣・足立重信の石手川開削工事

ここで余談ではありますが――

苛烈な支配で民から恐れられた佃十成がいる一方で、同じ加藤嘉明の家来の中には、領民を深く愛し、今なお郷土の恩人として慕われ続ける人物もいました。

松山城の築城や、松山平野の治水に命を懸けた足立重信です。

重信は松山城を築く際、巨大な石垣を運ぶ過酷な作業であっても、領民と苦楽をともにしながら力を合わせて進めたと伝えられています。

さらに、たびたび氾濫を起こしていた石手川の流れを変え、現在の重信川(旧称:伊予川)へと合流させる壮大な開削工事、いわゆる「岩堰(いわぜき)の掘抜き」にも挑みました。

硬い岩盤を「石ノミ」と「鎚(つち)」だけで削り進める工事は困難を極め、人々は疲弊していきました。

そこで重信は、「岩くずを一升掘り起こした者には、米を一升与える」という破格の報奨を出して人々を励まし、見事にこの難工事を成し遂げたといいます。

この「岩一升に米一升」の温かい逸話は、今も地域に深く言い伝えられています。

のちに、彼の偉大な功績と民を想う心を称え、この合流した川は彼自らの名をとって「重信川」と名付けられました。

同じ主君に仕えた家臣でありながら、力で抑え込もうとした佃と、心を通わせた重信。

二人の対照的な生き方は、歴史における「人望」のあり方を現代の私たちに静かに物語っているようです。

久万高原町大川の風景

写真正面に高くそびえる山は、大川の地に佇む狼ヶ城(ろうがじょう)

4.堂山権現に誓い、立ち上がった村人たち ―― 大寺院「菅生山 大宝寺」と「民」を護る堂山権現

主君・加藤嘉明に訴える前に堂山権現に誓い、立ち上がった二人

この章で述べる内容は、後述の「堂山権現伝聞記」の一節をもとにしています。

村人たちは、松山の殿様に訴える前に、奥山にある堂山権現(奥之院)へ向かい、平穏な暮らしの回復を祈願し、その願いが正しきものとして殿様のご裁可を得、成就するよう誓いを立てたうえで、行動に移したものと思われます。

こうして祈誓した願いが成就したことを堂山権現のご加護と受け止めた村人たちは、感謝を込めて八柱神社の境内に「堂山権現惣祈願所」を祀るようになったと考えられます。

それまでの「御山権現」という尊号から、あらためて「堂山大権現」と謹んでお祀りしたのです。

久万高原町大川の堂山鎮守社

八柱神社境内の「堂山権現惣祈願所」

ちなみに、土居三郎右衛門の父は、かつて殿様の加藤に見込まれて、大川・有枝・日野浦の庄屋職・下坂十三か村の責任者になっていました。

そんな父から、「まず、雨乞いの森の堂山権現の御前にて誓いを立て、しかる後に、松山へまいられい」と、諭されたのではないでしょうか。

堂山権現の聖地は美川峰の岩窟にあります。

信仰を集めた、堂山権現(奥之院)は美川峰雨乞いの森の山中にあります。上の写真は、狼ヶ城の麓から見た美川峰。

位置 33°34′14.76″N 132°56′05.06″E 標高 1424.74m

松山方面から車を走らせ、三坂道路の第一トンネルを抜けた先にある信号を右折して、久万町方面へと向かう。そのとき、正面の視界いっぱいに広がる雄大な山並みこそが、堂山権現のある美川峰から大川嶺へと続く連峰です。

美川峰の看板脇の尾根から見た現地

堂山権現の聖地は、柳谷美川線にある電子基準点『美川』から、尾根を越えてたどり着く場所です。

車がなかった昔は、大川側から山を登り、参拝していたと聞いています。

久万高原町を美川峰から遠望

聖地に近づき尾根を越えると、眼下には久万町内から三坂峠方面の風景が視界に広がってきます。

少し西に目を向けると、山並みの向こうには瀬戸内海の島々が点在し、その先には本州の山並みが広がります。

堂山権現聖地近辺のブナ林

美川峰の尾根を越え、ブナ林に包まれた谷筋を下った先に、静かに聖地がたたずんでいます。

堂山権現の聖地の岩窟

堂山権現が祀られた岩窟

久万高原町大川美川峰の堂山権現がある岩肌の窪み

聖地へ続く道はなく、清水の湧き出る岩肌を伝いながら進みます。

堂山権現の聖地の岩肌

雨乞いの森の中の堂山権現、祈りの地

堂山権現の聖地の祠

堂山権現の聖地・奥之院・奥御殿――。

そこには今も、岩窟内に祀られた小さな石造りの祠(約50cm角)がひっそりと佇んでいます。

古い神社の記録(社伝)を紐解くと、かつてこの地には立派な社殿があり、宮人が訪れそれを再建したといいます。

遥か昔、西暦701年(大宝元年)8月にこの地へと入った、伊予の国を治める国司・小千宿禰玉興(おちのすくね たまおき)でした。

都の朝廷から赴任してきた玉興公は、みずから奉行(総責任者)となり、この地にあった社殿を厳かに再建されたと伝えられています。

当時は「御山権現(みやまごんげん)」と呼ばれており、この地から遠望できる、同年の大宝元年に創建された歴史ある大寺院「菅生山 大宝寺」を守る神様でした。

そして、神仏の力をもって国家や大宝寺、人々を災いから守るという、極めて重要な役割を担っていたのです。

701年(大宝元年)は大宝律令(刑罰を定めた『律』と、行政のルールを定めた『令』を網羅した基本法)が完成し、律令国家体制(天皇と貴族を中心に、法に基づいて国を治める仕組み)が確立しました。

また、国家的寺院が次々と建立され、仏教による国家安泰が図られました。

なお、当時の都は日本初の本格的な都城(日本国の始まりの地)であり、2026年7月に世界文化遺産にも登録された藤原京(現在の奈良県橿原市周辺)にありました。

飛鳥時代より、千四百年以上にわたって祈りが捧げられてきたとされるこの聖地。

大宝元年に「再建」されたという記録が示す通り、実際は、それよりもはるか太古の昔から、久万山の民が「山の神(のちの堂山権現)」をこの地に祀り、敬ってきたと考えられます。

かつて祀られていた木製の祠や立派な社殿は、気の遠くなるような時の流れとともに朽ちては、幾度となく修復されてきたことでしょう。

しかし、その社殿も時の流れの中でなくなりましたが、数え切れぬほどの先人たちの祈りは、そうして現代へと繋がれてきたのです。

そして1980年代、そんな木製の祠が二度と朽ち果てることのないよう、後世に伝えるための決断が下されます。

大川上組の石工の手によって、石板を組み立て式に加工した新たな「石造りの祠」が造られたのです。

その重い石板はバラバラに分解され、地域の人々が「今度こそ永久に遺るように」と願いを込め、一枚ずつ背負って険しい岩窟まで運び、現地で組み立てられたといいます。

ただ、現在この地の存在を知る人はわずかに残っているものの、実際にここを訪れる人はほとんどいません。

これからここを訪れる人も、おそらく私たちの世代が最後となるでしょう。

やがてこの地は、人々の記憶からも静かに消え、遠い彼方へと沈んでゆくのかもしれません。

大宝寺の改宗史と、影が薄れていく堂山権現の謎

宗派という概念がまだ曖昧だった大宝元年(701年)、文武天皇の勅命によって創建された大宝寺と、その草創期を地主神として守護した御山権現(堂山権現)。

当時は、地元の山岳信仰と仏教が融合した、極めて密接な関係にあったと思われます。

その後、大宝寺は天台宗の時代を経て、弘仁13年(822年)に弘法大師空海の手によって真言宗へと改宗されることになります。

時代が下り、宗派を創設した弘法大師(お大師様)自身が「寺を守る絶対的な象徴」として信仰の中心に据えられるようになるにつれ、かつて創建の歴史を共に歩んだ堂山権現と大宝寺との直接的な結びつきは、次第に主役の座を譲り、薄れていったのではないかと推論できます。

5.「大坂夏の陣」――数々の武功、そして家老の命を救った忠義、やがて訪れた裏切り

大坂夏の陣の情景

実は、佃・土居・船草――この三人には、戦場で命を懸けて交わした“誓い”の物語が秘められていたのです。

なんとこの三人、かつて徳川と豊臣が激突し、豊臣を滅ぼした「大坂夏の陣」で、同じ軍勢に属して主従の関係にあったのです。

そのとき、佃(当時62歳)は、殿様が松山藩軍の大将として、石高から推測すると二千人を超える兵を率い全軍を指揮する中、後衛部隊長として自らの軍を率いていました。

土居(当時18歳)と船草は佃の配下として、将軍・徳川秀忠の本陣の右――重責を担う位置に布陣し、大坂方との決戦の刻を待っていたのです。

そして、その戦のさなか、敵に追われ川に沈んだ佃を救うため、土居と船草は決死の覚悟で鉄砲と槍を手に追手を討ち取り、舟を回して佃を助け出しました。

さらに二人は、軍勢を率いた佃を守るために、退却する味方の最後尾に立ち、追っ手を食い止める“しんがり”の役目を果たしながら、数々の武功を挙げたと伝えられています。

まさに、命を預け合った関係だったのです。

助けられた佃は深く感激し、「この恩に必ずや報いる」と、二人に誓いました。

大坂夏の陣戦闘風景

――それから、幾年月が流れ。

かつて「この恩は必ず返す」と誓った佃。

彼らが戦場にて共に死線を越え、命を懸けて助け合った記憶は――深い絆となって刻まれていたはずでした。

しかしその言葉は、都合よく忘れ去られたのか、それとも覚えていながら、支配体制を守るためにあえて伏せられたのか──いずれにせよ、彼は久万山の村人たちを苦しめる冷酷な支配を押し進め、ひたすら自らの欲を満たすことに執着していったのです。

当時の武士社会では、戦での忠義や勲功に対して、しかるべき恩賞や地位で報いるのが当然とされていました。

佃もかつては仕えた主君に功を立て、地位を与えられた身でありながら、その振る舞いは武士の道から外れ、到底許されるものではありませんでした。

その裏切りに対する反発も、排斥運動に拍車をかけたようです。

「大坂夏の陣」

伊予松山藩軍は、2代将軍・徳川秀忠に従って、総勢二千人を超える軍勢で参陣

総大将:加藤嘉明(初代松山藩主)

部隊長:佃 次郎兵衛 十成

佃配下の一翼
土居 三郎右衛門尉 方純(大川村)
船草 次郎右衛門尉(日野浦村)
久万山からの従者や同郷の兵士推定100人規模

「大坂夏の陣」と久万山軍勢

関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)で天下を手にした徳川家康が、ただ一つ従わせきれなかった勢力、すなわち大坂城の豊臣家との最終決戦でした。

「徳川か、豊臣か」

二つの宿命が激突した最後の戦い、それが慶長20年(1615年)5月7日の「大坂夏の陣」だったのです。

舞台となった大坂城は豊臣家最後の拠点であり、この戦で落城し、豊臣家は滅亡しました。

戦には、徳川方およそ15万5千人、豊臣方およそ5万5千人、あわせて20万人を超える兵がぶつかり合いました。

伊予松山藩軍も加わり、2代将軍徳川秀忠に従って出陣しました。

松山藩軍は、大阪城を正面に見て将軍・秀忠本陣の右側(右翼)に布陣し、久万山領からの百人規模の兵を含め、2千人以上が動員されたと考えられます。

大御所・徳川家康はすでに将軍職を譲っていましたが、総大将として茶臼山に本陣を構え、隣に並ぶ秀忠軍とともに全軍を統率しました。

両本陣はごく近く、戦場ではほぼ横並びに構えていました。

豊臣軍は兵力で劣っていたため、持久戦では不利と見て、あえて一気に徳川方の両本陣(家康・秀忠)を突く戦術をとったと考えられます。

そのため家康の陣には毛利勝永や真田幸村ら精鋭が襲いかかり激戦となり、一方その隣では大野治房軍が守りを突破して秀忠本陣に突撃し、一時は大混乱に陥りました。

その窮地にあって、伊予松山藩軍が、黒田長政勢とともに将軍・秀忠本陣の援護に駆けつけ、豊臣勢に立ち向かいました。

そして本陣を守り抜き、やがて反撃に転じたことで、戦局は徳川方優勢の流れとなりました。

やがて豊臣方は総崩れとなり、戦場は大混乱に包まれます。

そのさなか――敵に追われた部隊長の佃は川を渡る際に落水して沈んでしまいました。

その瞬間、佃を見失った兵士たちの間に大きなざわめきが広がります。

「治郎兵衛様が沈まれたぞ!」

兵士たちがそう叫び、戦場は大騒ぎになりました。

その異変に気付いた土居と船草ら久万山勢は、決死の覚悟で鉄砲と槍を振るい、敵兵を討ち取りながら舟を回して、川に沈んだ佃を救い上げました。

動員された兵士の中には、久万山で、かつての同胞への「容赦のない残党狩り」や「苛烈な民衆統制」を冷酷に実行し、自らを「勇猛果敢で命知らずの荒くれ男」と自負していた佃の近習(配下)たちも居合わせたはずです。

近習たるもの、自らの命を投げ出してでも、主君を死守する人間の盾にならなければならない宿命であったはずです。

しかし、鉄砲弾が飛び交い追手が迫る中、形勢不利と見るや身をすくませた側近配下の不甲斐なさは、その本性を物語っているようです。

あるいは、佃は日頃から、側近たちから深く嫌われていたのかもしれません。

それにもかかわらず、危険を顧みず佃を救ったのは、側近たちではなく、土居と船草らの久万山勢だったのです。

支配された立場の久万山の若者が、久万山代官である家老を救った――この出来事は、単なる忠義の美談にとどまらず、久万山の支配体制の中で「何かを変えたい」と願った若者たちの意思表明だったのかもしれません。

誰が真に行動できるのか――そう問いかけてくる一場面であったのです。

「大坂夏の陣」の惨状

「戦国時代の戦」と聞くと、ゲームやアニメ、漫画、映画やドラマ、さらには武将フィギュアやイベントなどで描かれる勇ましい武将たちの活躍や華やかな戦術に目を奪われがちです。

しかし、実際の戦場は現代人には想像もつかない地獄のような惨状でした。(参考:黒田長政『大坂夏の陣屏風』)

武士にとって首を取ることは掟であり、無数の首のない死体が転がる中、勝者は討ち取った首を腰にさげたり、槍先につるして誇らしげに引き上げました。

戦の後には首実検(討ち取った首を持ち寄り、誰を討ったかを確認して武功を裁定する儀式)が行われ、首の山が築かれたと伝わります。

捕虜となった兵士の多くも処刑され、手を合わせて命乞いしても容赦はなく、生き延びた者はごくわずかで、豊臣方の兵は実質的に「全滅」に近い運命をたどったのです。

さらに、当時の戦では「乱妨どり」と呼ばれる行為が行われ、勝者は敗者の財産や食料・城内の貴婦人まで奪うことが暗黙に認められていました。

落城後の城下町は火に包まれ、町人の家財や食糧は奪われ、怯えて泣きじゃくりながら連行される町人女性、幼子を必死に守る母親、命を奪われる町人男性や逃げ遅れた子ども、乱暴狼藉・略奪・老若男女を問わぬ殺戮や人身売買――戦場の現実は想像を絶する惨状でした。

こうした行為は、平和の中の現代人には信じがたい習慣ですが、戦国の兵士にとっては「命を懸けた戦の戦利品」、すなわち当然の報酬とされていたのです。

残念ながら、現代においても世界の一部の地域では同じような惨状が繰り返されており、戦争や武力紛争で敗れた場合の人命や人権の軽視は、時代を超えて変わらない現実です。

名だたる血統や家柄・名将がもてはやされ、忠義や大義、名誉や武功と華やかに描かれる戦国の裏側には、弱き立場で苦しむ人々と、残虐にふるまう武士たちの姿があり、血と炎と屍が積み重なる現実があったことを忘れてはなりません。

大坂夏の陣の合戦イメージ画像

江戸時代の前の戦国時代、土佐軍勢から伊予の国を守っていたのは、久万山各地に築かれた支城の城主やその家臣団。

その子孫たちは当時の久万山にも数多く残り、農作業に従事しながらも、いざという時には武勇を発揮する一族として知られていました。

この大坂夏の陣は、支配体制が変わった後も、旧臣層の中で志ある者(久万山一八家)にとっては、「家名の再興をかけた戦」として受け止められたはずです。

彼らはこの戦に希望を託して参戦し、松山藩軍の中でもひときわ勇猛さを示したと考えられます。

土居三郎右衛門(どい さぶろうえもん)

実名・方純(まさずみ)/1597~1655年

6.堂山鎮守社にたたずむ謎の石碑

堂山鎮守社にたたずむ謎の石碑(堂山権現伝聞記)

堂山権現伝聞記が刻まれた石碑

堂山権現伝聞記

堂山鎮守社の石碑建立年は平成24年8月吉日、大川部落氏子中

そして次は、平成24年に建立された、堂山鎮守社にひっそりとたたずむ謎の石碑に迫ります。

この石碑には、土居家古文書に伝わる『大川村権現伝聞記』が刻まれています。

およそ400年もの間、人目に触れることのなかった重要な記録です。

2001年から始まった土居家古文書調査において、千葉大学文学部の研究チームは2011年8月、丁寧に製本されて紙箱に納められた『伝聞記』に着目しました。そして神主や氏子総代に堂山権現の由来や『伝聞記』について尋ねたものの、その真実を知る人はいなかったようです。

石碑の建立に奔走した村人たちにとって、その詳しい歴史的背景や佃一派との因縁までは、分からなかったのかもしれません。

しかし「我が堂山鎮守社に、これほど古い伝聞記があったのだ」という純粋な喜び、そして神社にさらなる「格」を添え、後世に遺したいという熱い一念が、あの立派な石碑を建立させたのではないでしょうか。

なお、「佃十成の排斥運動」の史実は、他村の庄屋文書に記録されており、その内容が『久万町誌』の「藩政時代の久万」に掲載されています。

「伝聞記」に関する解説資料はありませんが、その内容は「大坂夏の陣と佃十成の排斥運動」と符合しており、史実を裏付けるものとなっています。

当初、この石碑は、大川奥組の堂山権現中宮社に建立される予定だったそうです。

大川奥組の堂山権現中宮社

大川奥組の堂山権現中宮社

久万高原町大川奥組の堂山権現拝殿復興の碑

久万高原町大川奥組・堂山権現中宮社にある拝殿復興の碑


しかし、中宮社はちょうどその頃に再建されたため、再建に関する内容を記した「拝殿復興の碑」が中宮社に設置され、『伝聞記』の石碑は、八柱神社境内の堂山鎮守社に置かれることになったと聞きました。

「伝聞記」には堂山権現が八柱神社の境内に御神殿を移された理由が述べられていることから、八柱神社境内への石碑の設置は正解であったといえるでしょう。

「伝聞記」は、過去の歴史をすでに知っている人を前提に書かれているため、初めて読む方には話の流れや背景がつかみにくく、理解できない構成になっています。

それでは、石碑に刻まれた原文と、それを分かりやすく読み解いた現代語訳、そして私なりの考察を交えた解説をお届けします。

7.宗泉寺に弁天か?心けがれた者への警告か?――「大川村権現伝聞記」年月未詳

浮穴郡熊山大川邑堂山権現由記

むかし此郷の狩人奥山にて鹿を見付、城ヶ森まて追ふに異形に見へ忽見へす、

夫より雨乞か森に烏騒けるを不審におもひ彼山に登れは岩石の前に水溜り有、

立寄て見れは珠のことくなる石に風調雨順民康の六字を現んす、

時昔宮人の入玉ふ御山と聞、其故やらんと思ひ軒口やすみねむりけるに夫婦の老翁来て告云く、

我は此山の主し也、必心穢の輩入事なけれ、我を信するものはなかく堂の森に来たりて石上の六字を祈らは無実の難を救ひ幸を得さしめんと云、

畢りて岩石へ登ると見れは夢覚たり、是こそ神託なりと思ひ伏しをがみ歓喜して此郷に帰、彼森にほこらを建、奉称堂山大権現と、日ゝに参籠して国家の幸を祈る、

此子孫石見と云ふ、神子かろうと口に住みて、毎月一七日之参籠して祈念し不思議たりしとなり

此神子慶長の比卒す、

戊辰両歳七月七日廟所かろうと口にて、村中寄集して供養有る、

又宗泉寺の表に弁天と称し惣川内の神主祭之、

然るに寛永三寅春群中至て及困窮に、此社に祈誓して人民松府に出て愁訴を成す、

直に戴君恩郡中潤色にうつり、

依之此郷の氏神惣川内の社内に御神殿を移し、惣祈願所とさだめ、其後益諸の願をかけ其しるしあらすとゆふ事なし、

此餘は神慮を恐れ秘する物也、必うたかふ事なかれ

8.伝聞記を今の言葉に書き直してみた

堂山権現伝聞記の冒頭太古の鹿猟シーンをイラスト化

むかし、この村の狩人が奥山で鹿を見つけ、城ヶ森(現在の狼ヶ城・ろうがじょう)まで追いかけていると、その鹿は突然姿を変えて、消えてしまいました。

その後、雨乞か森(美川峰)でカラスが騒いでいるのを不思議に思い森に登ると、岩の前に水たまりがありました。

立ち寄ってみると、水の中の丸い石に、「風調雨順民康」という六文字が現れました。

狩人は「昔、宮人がお入りになった御山(みやま)だと聞いている。だから、このような不思議なことが起こったのだ」と思いました。

疲れ果てた狩人が、岩窟の軒口で休んでいると夢の中に老夫婦が現れ「我らはこの山の主である。穢れた心の輩(けがれた心のやから)は、この山に入ってはならぬ。我らを信じるものは、堂の森に来て『風調雨順民康』と祈れば、 身に覚えのない苦難に遭っている人々に、幸せがもたらされるであろう。 」と告げました。

老夫婦の話が終わると、狩人は岩に登って、景色を見渡したところ、まるで目が覚めたかのように、現実に戻ったことに気づきました。

狩人は、これを神のお告げと信じ、深く頭を下げて拝み、喜んで村に帰りました。

その後、この森に祠を建て、それまでの「御山権現」という尊号から、あらためて「堂山大権現」として祀り、国の安泰を祈ったのです。

江戸時代の堂山権現聖地のイメージ画像

狩人の子孫は石見(いわみ)と呼ばれ神子として「かろうと口」に住み、毎月17日に堂にこもって祈りを捧げ続けたところ霊験あらたかでした。

石見は慶長年間に亡くなりました。

村中の人たちは、「かろうと口」に集まり、石見を供養しました。

また、宗泉寺の前には「弁天」と称する仮の名の祠が設けられ、惣川内神社の神主がその祭祀を行いました。

それなのに、寛永3年の春、村は深刻な困窮状態に陥りました。

そこで、堂の森(美川峰・雨乞か森)にある「堂山大権現」に祈りを捧げ、誓いを立てた上で松山に赴き殿様に訴えを申し立てました。

その結果、殿様の恩恵により村中の暮らしが潤い、皆が安泰に暮らせるようになりました。

この出来事を受けて、堂山権現の御神殿が惣川内神社の境内へ移され、総祈願所として祀られることになりました。

その後、多くの願いをかけ、そのすべてに効果が現れたと言われています。

このことは神のご意思を恐れて秘めていたもので、決して疑ってはなりません。

9.伝聞記とは?――「大坂夏の陣」と「佃十成の排斥運動」が伝説に仕立て上げられた、史実の記録だった!

狼ヶ城 (城ヶ森)

狼ヶ城 (城ヶ森)

「伝聞記」では、村の狩人が奥山の「城ヶ森」まで鹿を追い、不思議な出来事に遭遇します。

城ヶ森(狼ヶ城)は、大川から見上げると堂々とそびえ、まるで城郭のようにも見え、「大坂夏の陣」の大坂城になぞらえて名付けられたと考えられます。

物語に登場する鹿は、神や精霊が姿を変えて伝説の始まりとして語られているように見えますが、実はこの鹿は佃十成を象徴した存在です。

ここで描かれる「鹿」は、佃の兜を指す象徴表現と見ることができます。

戦国武将が身につけた武威を示す兜の姿と、佃の「大坂夏の陣」での姿とが重ねられたのでしょう。

また、狩人は佃の指揮下で命を預けて戦った、土居・船草を代表とする久万山軍勢を置き換えたものです。

狩人という設定は、獲物を追い危険に挑む姿が戦場での行動に重なりやすく、軍を統率した佃に仕え、行動を共にした戦を物語として伝えるのに適していました。

「城ヶ森まで追う」は、大坂城や敵陣への攻め込みを表しています。

「異形に見へ忽(たちまち)見へす」というこの一節は、戦況の急変によって佃が川に沈み、姿を消す場面を示していると考えられます。

これは、佃が溺れて必死にもがいている瞬間の姿を、狩人に追い詰められた「鹿の最期の姿」に重ね合わせて表現したものでしょう。

威風堂々としているはずの武士・佃が、重い鎧(よろい)に阻まれ、なりふり構わず泥水の中で水しぶきを上げて苦しんでいる姿――それはあの佃とは思えない「異様な姿(=異形)」に映ったはずです。

落人狩り(残党狩り)で生死を共にした旧河野家臣たちを容赦なく追い詰め掃討していた佃が、今度は自らが「狩られる側の鹿」となって追い詰められて川底へ消えていく。そんな因果応報の情景が、この「鹿」の比喩には込められているのでしょうか。

カラスの鳴き騒ぎは、川に沈んだ佃に気づいた兵士たちの動揺やざわめきを暗示しています。

その騒ぎに導かれるように土居と船草が舟を操って近づき、やがて沈んでいた佃を救い出す場面へとつながっていくのです。

――遺恨(いこん)を越え、彼らはそれでも佃を助け出したのです。

そして、その直後に描かれる『水溜り有』の場面――これは川の水面の描写を指していると考えられます。

そこで現れた『風調雨順民康』という六字は、佃が恩義を誓った温情とも重なり合い、「天下泰平、戦の果てに訪れる安泰の世、民の安らぎ」を願う言葉として受け止められます。

伝聞記には、この地を「時昔宮人の入玉ふ御山と聞」と記されています。

これは、大宝元年(701年)の大宝寺創建の際、国司の指揮によって大宝寺を守る神様として御山権現(堂山権現)が再建されたという、この御山の深い由緒を物語るものであり、そこには国と人々の平穏をひたすらに願う、深い祈りが込められていました。

村人たちにとっては、「支配の改善」や「困窮からの救済」への期待と深く結びついていたのでしょう。

物語は佃の暴政の時代へと移ります。

疲れ果てた狩人が岩陰で休んでいると、夢の中に年老いた夫婦が現れ、自らを「この山の主だ」と告げました。

堂山権現伝聞記の夢の中に現れた老夫婦

堂山権現奥の院、その岩窟の近くには、深い木立を突き抜けるように巨岩がそびえ立っています。その威容から、古くより「夫婦岩」の名で親しまれてきたそうです。

伝聞記には、狩人の夢の中に「夫婦の老翁(めおとのろうおう)」が現れ、お告げを授けたという不思議な一節が残されています。

この巨石の佇まいは、老夫婦の化身、あるいは寄り添う菩薩や神霊の姿を具現化しているかのようです。

堂山権現奥の院の岩窟近くの大木の中の白い岩が「夫婦岩」向こうに見える山は「狼ヶ城」

年老いた夫婦とは、仲睦まじく、長く穏やかに生きてきた人生の象徴であり、“平和で正しいもの”を体現する存在と見ることができます。

その老夫婦は「心穢れた輩は堂の森に立ち入ってはならぬ」と、厳しい言葉を残しました。

この一言には、ただならぬ怒りと深い悲しみが込められており、恩義を踏みにじり、信仰心もなく、利己的にふるまう者や、人の尊厳をも顧みないような振る舞いへの痛烈な非難と受け取ることができます。

その「心穢れた輩」とは、村人の平穏を乱した佃とその配下の者たちではなかったのでしょうか。

実際、村人の苦しみを顧みず、自らの利権を優先した佃のふるまいは「心が穢れた輩」という言葉と重なります。

ここで語られる“穢れ”は、宗教的な穢れではなく「人としての清廉さ」や「道義の欠如」を意味しているように見えます。

山の主の老夫婦は「堂の森までも、佃の支配は許さない」と声を上げたように感じられます。

また、「石上の六字を祈らば、無実の難を救い、幸を得さしめん」という言葉が残されています。

ここにある「無実の難」という一節には、当時の切実な願いが込められているようです。

「伊予の関ヶ原」の折、戦いに呼応していないにもかかわらず、不当な追及や強制労働にさらされ、恐怖に怯えていた村人たち。

彼らにとってこの言葉は、失われた「風調雨順民康」――すなわち、平穏な暮らしの回復を象徴する「救いの言葉」だったのでしょう。

それは、佃一派の横暴によって失われた日常への切実な願いだったのです。

久万高原町大川の江戸時代風景

「直に戴君恩郡中潤色にうつり」は、形式上は殿様・加藤嘉明の慈悲と読み取れますが、実際には村人や庄屋の行動、さらに殿様の別の家来(堀・足立)の調停が大きな役割を果たしたと考えられます。

愁訴の翌年に松山藩主となった蒲生忠知の施政――久万山に地方知行制を敷かず、従来の過酷な支配を改めた方針が、人々の記憶と重なり「戴君恩」として描かれた可能性もあるでしょう。

愁訴の成功は単なる殿様の慈悲によるものではなく、久万山の人々の必死の行動と、時代の変化が重なり合って実現した大きな転機であったのです。

“心穢れた輩”という一語に込められた当時の村人たちの苦悩と抗議の声――。

それこそが、「石碑に刻まれた伝聞記」の核心なのかもしれません。

伝聞記は、写しをとるために他の村の庄屋に貸し出された記録も残されています。

そしてこの伝聞記は、当時の悪政を後世に伝える、きわめて貴重な証言資料でもあると考えられます。

さらに、「寛永三年ニ久万山惣百姓中、目安ヲ以訴」と題された目録も残されており、そこには久万山領民全員の署名が添えられていたことでしょう。

特に「伊予の関ヶ原」では中立を貫き、その後の「大坂夏の陣」で勇猛果敢な働きを見せて新体制へと帰順した久万山の旧河野家臣たち。

彼らが連名で記した署名には、殿様(加藤嘉明)やそれを取り巻く家臣たちも、その揺るぎない忠義と覚悟に圧倒されたに違いありません。

9-1伝聞記に登場する「石見」と「大坂夏の陣」

伝聞記には、石見と言う人物が堂山権現の祭祀を担い、「慶長の比卒す(慶長のころ亡くなった)」と記されており、年代の特定をあえて明記していない表現が用いられています。

この「慶長の比」という表現は、慶長20年(1615年)に起きた大坂夏の陣と重なります。

この戦では、伊予松山藩軍も参戦し、その軍勢の一部として、久万山から動員された部隊も加わっていました。

当時、久万山は六千石を領しており、軍役の基準からすれば100人規模の兵が動員されたと考えられます。

記録に名を残しているのは、代表格の土居と船草の二名ですが、実際には彼らと行動を共にした従者や同郷の兵を含む、小規模ながらも軍事訓練を積んだ実戦的な一団が従軍していたとみるのが自然です。

そして、伝聞記に登場する石見も、その一団に加わり、出陣していた可能性があります。

石見は従軍祈禱師として部隊の精神的支柱となり、その死は深く惜しまれたことでしょう。

彼が従軍中、あるいは佃の救助にあたる過程で命を落とした――その出来事が「慶長の比卒す」と記されたのではないか、と推測します。

10.なぜ堂山権現が選ばれたのか?

次は、「なぜ堂山権現なのか?」という最大の謎に迫ります。

考えるられる三つの理由を通して村人たちの祈りの本当の意味が見えてくるかもしれません。

――久万山には多くの神社や寺があるのにどうして堂山権現なのでしょうか?

なぜ堂山権現だったのか

イメージ画像です。

  1. 久万山にある神社や寺院などの祈りの場は、佃によって支配され、彼の意向に沿うかたちで祭祀が行われていた。
  2. 村人たちは、堂山権現に「慈悲」の教義を見い出し、救いを求めた。
  3. 堂山権現は、佃の関知しない奥山にひっそりと鎮まり、この地域でも最も古く、大宝寺を守る神として、国司ゆかりの別格の祈りの場とされていた。

伝聞記の「宗泉寺の表に弁天と称し惣川内の神主祭之」

この一節からは、次のような姿が浮かび上がります。

惣川内神社の神主は、本来なら自らの奉仕する惣川内神社に赴いて祈祷するのが常識です。

ところが、地形的に神社を一望できる川向いの宗泉寺の表に「弁天」と称する祠を設け、佃の関係者の目を欺きながら、その祠越しに惣川内神社の神殿へ向かって祈っていた――いわば「隠れ祈祷」ともいうべき姿が読み取れます。

これは、佃が領主として寺社に寄進を重ね、それらを自らの支配下に置いたため、地元の神主が本来の座を追われ、神社に近づくことすらできなかった結果ではないでしょうか。

佃は久万山の神社や寺院に寄進した記録が残っており、惣川内神社も例外ではなかったと考えられます。

こうした寄進は領地支配の安定を目的とした統治戦略であり、専属の神職や僧侶を招いて宗教をも取り込み、領民支配の体制を強固にするものでした。

寄進の内容は、金銭や社殿の建立・再建にとどまらず、石燈籠や鳥居、幟や奉納額など、視覚的に権威を誇示するものだったと想像されます。

当時の惣川内神社には佃奉納の幟旗が立っていたかもしれませんし、場合によっては神社そのものが閉鎖を強いられていた可能性すらあります。

佃による社寺統治の目的は、土佐勢からこの地を守り抜いた「河野氏への崇敬信仰」を、藩主を頂点とする「幕藩体制的な支配」へと塗り替えることにあったと推論できます。

形式上は村の神社であっても、実質的には佃の権威が及ぶ「お上の神社、寺」「支配者の神」と化し、村人たちにとっては本当の願いを託せる場ではなくなっていたのでしょう。

だからこそ、佃の権威の及ばぬ奥山に鎮まる、古代の国司(都の朝廷から派遣された、最高位の貴族高官)ゆかりの歴史ある堂山権現。

村人たちは、慈悲と正義を兼ね備えたその霊験あらたかな存在にこそ、願いを託し、誓いを立てたのでしょう。

久万高原町大川嶺から見た狼ヶ城

聖地から久万高原町方面を望む。左側奥に見える小高い山は狼ヶ城です。

11.伝聞記の「かろうと口」とはどこなのか? ――400年の時を超えて見えてきた「神子が眠る廟所」

── 400年の時を超える謎 ──

なぜ「堂山権現」は3か所存在するのか——。
ついに解き明かされた長年の疑問。

かつての「神子の墓地」は、
時を経て「天地 悠久」の聖地へ……?

聖地から標高差約400m下った岩山の頂に佇む、堂山権現中宮社。

(※この中宮社へは車で直前まで行くことができ、駐車スペースも整備されています。)

伝聞記に登場する「かろうと口」。

地元の人々でさえ場所を特定できなくなっていたこの地名ですが、私は「かろうと口」こそが、現在の大川奥組にある堂山権現中宮社なのではないかと推測しています。

そもそも「かろうと」とは、墓石の下にある「納骨室(石室)」を意味する言葉です。切り立った岩場と険しい渓流が山を絞り込むこの地は、まるで閉ざされた石室(かろうと)のような神聖な気配を漂わせています。

神子の石見(いわみ)は生前、この「かろうと口」に身を置き、毎月一七日間の参籠(お籠り)を行っては国家安泰を祈り続けたといいます。実際、このすぐ近くの山中には、かつて石見が住居を構えていたことをうかがわせる適度な平坦地も見受けられます。

そして石見の没後、生前祈りを捧げ続けたこの地は、「廟所(びょうしょ=墓所)」すなわち神子の墓地(納骨所)となり、村人が集い供養を捧げる「廟所かろうと口」へと昇華していきました。

生前の壮絶な修行場であり、死後は神子が眠る納骨室の入口となった場所――。

この地がかろうと口であると推測します。

【用語解説】廟所(びょうしょ)とは
高貴な人物や先祖、あるいは特定の故人の霊を祀る建物や墓地のこと。つまり、本来は「神霊」を祀るための神社や社殿ではないのです。

久万高原町大川奥組の堂山権現拝殿復興の碑

現在、中宮社に建てられている「拝殿復興の碑」には、「旧堂山鎮守社拝殿」という文字が刻まれています。

しかし、この表記のままでは、八柱神社へ移される前の「元の聖地」がこの地であったかのような誤解を与えかねません。

本来の聖地とは、美川峰の岩窟なのです。

この歴史の「ねじれ」については、『伝聞記』に基づき、ここで正しておきたいと思います。

――『伝聞記』の記述と現代に残る形跡を照らし合わせると、この中宮社の地こそ、堂山権現の神子であった「石見」の墓地(供養の地・廟所かろうと口)であったと推測されます。

伝聞記によれば、村人たちはこの「かろうと口」に集まり、供養と村の平穏を祈り続けていました。

それなのに願いかなわず、寛永三年(1626年)、郡中の困窮はついに限界に達します。

そこで、「堂山権現の岩窟」へ不退転の祈誓を立て、命がけで松山城下への訴えへと踏み切っていったのです。

こうした中宮社の「ねじれ」が生じた背景には、明治の神仏分離令や地域伝承の「堂山大権現伝説」の内容による影響があったと考えられます。神子の石見は、困窮する以前から堂山権現の祈祷師として村人から絶大な信頼を寄せられ、日照りの雨乞いなど、人々の切実な願いを一身に受け止めていたのでしょう。

そして、人々を救い続けた石見が長い年月のなかで堂山権現そのもののイメージと重なり、いつしか伝承のなかで姿を変えていったのかもしれません。

村人たちが現在までこの地を絶やすことなく祀り続けてきた背景には、こうした石見への深い敬愛と、地域に根付いた揺るぎない信仰が存在していたのではないでしょうか。

12.堂山権現――太古の御神体をめぐる考察

石造りの祠を建立した際に納めた石板に、ヲシテ文字で「天御中主神」と記されています。

堂山鎮守社の現在の御神体は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とされています。

現在は建築物の痕跡こそありませんが、社伝(神社に伝わる記録)によると、遥か昔の西暦701年(大宝元年)8月に社殿が再建されたと伝えられています。

祠が祀られている岩窟は、見上げるような岩壁の、高さ5メートルほどの場所に位置しています。おそらく当時は、岩の下から高い柱を何本も組み上げ、崖にせり出すようにして神社を構築していたのではないでしょうか。

当時は「御山権現(みやまごんげん)」と称され、菅生山大宝寺の守護神として祀られていました。

再建に際しては神事が厳かに執り行われ、伊予の国司であった小千宿禰玉興(おちのすくねたまおき)公が、国の公認工事の総責任者(奉行)としてその大事業を取り仕切ったと伝えられています。

大宝元年、岩窟前の社殿再建イメージをAIで再現
「社伝によれば大宝元年8月再建と云う。御山権現と号して菅生山大宝寺神護を謹行し、国司散位小千宿弥玉興公奉行とある棟札がある。」の棟札があったとされる社殿のイメージ画像です。

こうした関係から考えると、堂山権現の太古の神霊は、大宝寺の本尊である十一面観世音菩薩が、人々を救うために姿を変えて現れた神であった可能性が考えられます。

如来や菩薩が神の姿を借りて現れることを「権現」と呼びますが、十一面観音は古くから「水を司る神」として現れることが多い菩薩でもあります。

十一面観世音菩薩が、この「雨乞いの森」では御山権現という神の姿となり、岩窟そばに聳(そび)える「夫婦岩」と呼ばれる巨岩にその慈悲の御姿を重ねながら、国家の安泰とともに、創建された大宝寺と久万山の安寧を、静かに見守り続けているのかもしれません。

かつて「御山権現(堂山権現)」として人々に親しまれてきましたが、明治時代に入ると大きな時代の荒波に呑まれることになります。

当時、明治政府が出した「神仏分離令」により、久万山各地ではお堂が焼き払われるなど、仏教的な信仰に対する統制が厳しくなっていました。

こうした弾圧からこの堂山権現を守るため、あるいは時代の要請に従う形で、仏教色のある「権現」の名を捨て、「堂山鎮守社」という神社名へと改められたのではないでしょうか。

それと同時に、御祭神もそれまでの権現(十一面観世音菩薩の化身)から、神道の根源神である「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」へと改められたのではないかと推測されます。

そもそも、宇宙の始まりの神である天御中主神が「大宝寺を守る神」であるというのは、本来の信仰の歴史から見ればあまりにも不自然です。

これこそが、明治の厳しい統制のなかで、大宝寺との深い繋がりや仏教色を必死に隠し、神社として存続を図るために、形式上の御祭神として選ばれた何よりの証拠(痕跡)なのかもしれません。

ちなみに、大川の宗泉寺の本尊は、臨済宗東福寺派の寺院でありながら、密教系(真言宗や天台宗)で重んじられる十一面観世音菩薩とされています。

臨済宗東福寺派では通常、釈迦如来や達磨大師を本尊とすることが多く、それと比べても観音菩薩を本尊とするのは非常に異例と言えるでしょう。

これは、宗派が変わったあとも、それ以前の本尊が受け継がれたためと考えられます。

大川の宗派は、時代ごとの政治的・文化的影響を背景に、変遷を重ねてきたと考えられます。

現在の大川は臨済宗東福寺派ですが、その前は真言宗の時代がありました。さらに歴史を遡れば、大宝寺の最古の宗派がそうであったように、もしかすると真言宗の前は天台宗の教えがこの地に息づいていたのかもしれません。

こうして天台宗、真言宗、そして現在の臨済宗へと移り変わってきた背景には、その時々の時代背景や、大宝寺との深い結びつきが大きく影響していたとみられます。

岩窟そばに見つかった石積み

石積み

再びこの地を訪れた際、岩窟祠の右上約5mの場所に、人工的な石積みを発見しました。

石積みの上部は窪みになっており、正面にある苔むした岩の隙間から、水滴が絶え間なく落ちていました。

石積みは、おそらく、落ちてくる水滴を溜めるために築かれたものでしょう。

石積み上部の拡大画像、岩から水滴が落ちる部分の窪み

現在は水が溜まる状態にはなっていませんが、近くの土を持ってきて田んぼのあぜのように水をせき止めれば、簡単に水たまりを作ることができたはずです。

ここが雨乞いの森、神聖な「水源の始まりの地」として崇められ、国司からも特別な場所として認められて、水を湛えた(たたえた)状態で雨乞いの儀式などが行われていたのではないかと想像が膨らみます。

水たまり状態をAIで再現

実際に水を湛えたその佇まいは、伝聞記にある「岩石の前に水溜り有」という一節の光景と見事に重なり合います。

伝聞記の作者は、この静かな水たまりの情景を思い描きながら、あの伝聞記をつづったのではないでしょうか。

「大宝元年(701年)」国司をお迎えした当時の儀式の状況をAIで再現

13.「風調雨順民康」に込められた、千四百年の祈り

『伝聞記』のなかには、現代の私たちには完全に忘れ去られてしまった、ある特別な祈りの言葉が記されています。

それが、「風調雨順民康(ふうちょううじゅんみんこう)」という六文字です。

一つの祈りの言葉として続けて読むと、「風(かぜ)調(ととの)い雨(あめ)順(したが)い、民(たみ)康(やす)らかなり」という、とても美しい響きを持っています。

伝聞記が残された寛永三年という時代――。悪政により、飢えと渇きが村を襲い、人々が明日をも知れぬ困窮の極みにあったとき、先人たちはこの岩窟を仰ぎ見ながら、文字通り命を懸けて、必死の想いでこの言葉を神仏に祈り続けたに違いありません。

── 言葉のルーツと意味

この言葉のルーツは、遥か昔の古代中国にあります。

「風が穏やかに吹き、雨がちょうどよい時に降り、人々が健やかに暮らしている」という理想の姿を表した言葉で、のちに仏教や漢字文化とともに日本へ伝わりました。

昔の人々は、災害や疫病のない平和な世の中を願い、国の安泰や人々の幸せをこの言葉に託しました。

「風調雨順民康」には、そんな時代を超えた祈りが込められています。

  • ・風調雨順(かぜととのい あめしたがい): 風が和らぎ、雨が順調に降ること(五穀豊穣の願い)
  • ・民康(たみやすらかなり): 人々が、健康で安らかであること(無病息災の願い)

「自然の恵みが順調に巡り、この地で暮らす誰もが病気や飢えに苦しむことなく、健やかに暮らせますように」という願いが凝縮されているのです。

西暦701年(大宝元年)の夏、この地にやってきた国司・小千宿禰玉興公も、日照りのたびにこの岩窟を仰ぎ見てきた歴代の村人たちも、みな一様にこの言葉で「恵みの雨と、家族の平穏」を祈り続けてきました。

時代が天台宗から真言宗、臨済宗へと移り変わろうとも、明治の過酷な神仏分離の荒波に揉まれようとも、この地で捧げられてきた祈りの本質だけは、千四百年もの間、決してブレることはなかったのです。

── 今を生きる私たち、そして未来へのメッセージ

しかし現在、堂山鎮守社(堂山権現)を参拝する人のなかで、この言葉を知る人は誰一人としていません。

当然、このように祈る人も、もう途絶えています。

現在の堂山鎮守社への祭事の祈りは、神主を迎えて祝詞(のりと)を上げています。

それは明治の神仏分離令を境に、お上の目を恐れてお寺や仏教の文化と深く結びついていたこの祈りの言葉を口にすることはいつしか避けられ、時代の荒波のなかで、人々の記憶から完全に忘れ去られていったからなのでしょう。

1980年代に、大川上組の石工をはじめとする地域の人々が「永久に遺るように」と、あの険しい岩窟まで重い石板を一枚ずつ背負って運んだ石の祠。

実はその時、汗を流し、息を切らしながら石を運んだ現代の先人たちもまた、かつてそこに秘められていた本当の祈りの言葉や、千四百年に及ぶ壮大な歴史の全貌を知る術はありませんでした。

歴史はすでに、完全に隠されてしまっていたのです。

それなのに、なぜ彼らはあれほどの過酷な作業をしてまで、あの岩窟に祠を建てたのでしょうか。

あるいは、堂山鎮守社の修復工事や中宮社の再建をしたのでしょうか。

――なぜ私は今、これほどまでに執拗に、この歴史の足跡を追いかけ、綴っているのでしょうか。

それは、形を変えた歴史のバトンが、彼らの心の中に確かに繋がっていたからです。

歴史の真実は忘れていても、「先祖代々が命を懸けて守り、手を合わせ続けてきたこの聖地を、決して自分たちの代で途絶えさせてはならない」という、理屈を超えた本能的な祈りの精神が、彼らを突き動かしたに違いありません。

この石の祠を建立する神事の際、神主さんによって、祠の中の石に、神道における宇宙の最高根源神である「天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」の御名が、日本固有の古代文字である「ヲシテ文字」で厳かに記されたのです。

かつて先人たちが、命運を懸けて「風調雨順民康」という最高格の言葉を捧げた聖地。

その記憶は失われてもなお、現代の先人たちは、神道の最高根源の神の御名を古代の文字で刻むことで、この岩窟が持つ「計り知れない格の高さ」を五感で感じ取り、引き継いでいたのです。

仏から神へ、

漢字からヲシテ文字へ。

「風調雨順民康」から「言霊響く祝詞」へ。

そして、諸行無常から天地悠久へ――。

まとう衣が変わろうとも、この地に宿る祈りの本質だけは、千四百年もの間、何ひとつ変わっていなかったのです。

私はこの言葉を、もう一度この地に呼び戻したいと思うのです。

現代の私たちの世界を見渡してみれば、地球そのものが破滅の危機に瀕しているかのような、極めて危険な状態が続いています。

異常気象や種の絶滅の加速、繰り返される未知の感染症の脅威、さらには制御を失いつつあるデジタル社会の混迷──。

世界の各地では絶え間なく紛争が起こり、いつ取り返しのつかない事態になってもおかしくないほど、私たちの将来は混迷と不安に包まれています。

現在の世界が直面している混迷は、400年前にここ久万山で支配体制が塗り替えられた当時の激動をも遥かに凌ぐ規模であり、場合によっては我が国のあり方そのものが根底から覆る事態すら現実味を帯びています。

かつて悪政や飢饉に苦しんだ先人たちがそうであったように、いま私たちもまた、どうにもできない大きな時代のうねりと恐怖のなかに立たされているのかもしれません。

だからこそ、いま。

これからあの険しい岩窟や、八柱神社境内の堂山鎮守社、奥組の中宮社を訪れる機会のある方、あるいは、このブログを通じてこの聖地の存在を知った方へ。

さらに、遠くから美川峰の山並みを仰ぎ見るときがあれば、どうか心の中で、あるいは小さな声で、この美しい言葉を唱えてみてはいかがでしょうか。

「かぜととのい あめしたがい、たみやすらかなり」

私たちがこの言葉を口にするとき、それは単に過去の歴史を懐かしむだけのものではありません。

それは、大宝の昔から重い石を背負った1980年代の人々に至るまで、この地で必死に命を繋いできた先人たちと時空を超えて手を結び、その強い意志を現代の私たちが引き受けるということ。

そして、争いの絶えないこの地球上で、「世界の誰もが傷つけ合うことなく、みんなが仲良く、安泰に暮らせる世の中に、未来は絶対になってほしい」という、全人類共通の切実な願いを天へと届けるための、新たな一歩になるはずです。

やがてこの地が人々の記憶から静かに消えゆく運命にあるとしても、私たちが自然を敬い、互いの平穏を祈るこの心を忘れない限り、千四百年の祈りは確かに次の世代へ、そして世界の未来へと受け継がれていくに違いありません。

夫婦岩空撮動画

※次の映像は、YouTubeチャンネル「ヒメ空テック」様によるドローン空撮です。本来は美しいツツジの風景を撮影されたものですが、思いがけず堂山権現奥の院の「夫婦岩」がはっきりと捉えられていたため、貴重な映像として一部(0秒〜30秒)を引用させていただきました。画面中央に映し出される巨石が夫婦岩です。咲き誇るツツジの花々に包まれ、まるで極楽浄土から見守る観音様のようなお姿です。ぜひ上空からの神秘的な光景をご覧ください。


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