愛媛県上浮穴郡久万高原町大川

久万高原町大川に伝わる伝説

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久万高原町大川に伝わる伝説

久万高原町大川に伝わる伝説物語のイメージ風景

久万高原町大川に伝わる伝説

※美川村二十年誌から引用

狼ヶ城の麓に「堂山さん」と呼ばれている権現さんがあります。別の名を御山大権現ともいっています。

承応三年(1654)に建立されたもので、水の神・五穀の神として信仰され、ひでりが続けば雨乞いを、雨が降り続けば日和乞いを、部落民総出で堂山大権現に祈り続けたものです。

寛永三年(1626)大川嶺に十一月の初めから雪が降り出し、一月、二月は毎日のように雪が降り、その深さ一丈(3.3メートル)にもなり、四月になっても堂山川・木地川の水は、ぬるみませんでした。それで稲のもみを蒔くことができず、六月になってようやく稲を蒔いたが、その年の収穫は皆無の状態でした。

久万高原町大川の雪景色(江戸時代)

しかし、城下からの年貢のさいそくは厳しく、年貢が納まらねば城下に来て働けといいます。働きに行くにも金も米もないので行くこともできません。困り果てた農民達は城下に出て、殿様に直訴することになりました。

農民代表一〇名が城下に出て、殿様が参勤交代で帰城するところを待ちうけて直訴しましたが、直訴は認められず、牢に入れられ打ち首になることに決まりました。

この農民を犬死させてはならない、何とかいい方法はないものかと庄屋に相談して、水の神、百姓の神の堂山大権現様に救済のお祈りをしようということになりました。近在の庄屋達もこれに参加して三日三晩祈願を続けたのです。

すると明日打ち首となる前夜、殿様の枕もとに堂山大権現が現われ、直訴した農民の首を打ってはならない、直ちに村に帰って農業に精を出すように申し渡せ、さもなければ、松山藩は、ききんが来て世情が乱れるであろう、それだけではない。幕府より藩とりつぶしの達しがあるであろう、というお告げがありました。

おびえた殿様は、翌朝いそいで農民の直訴を認め、堂山大権現への献上物を託して村に帰らせました。

その後村人達は、堂山を百姓の神とあがめ毎年五月二八日にお祭りをして、その年の五穀豊穣を祈るようになりました。

伝説について

この伝説は、同じ江戸時代初期に実際に起きた「佃十成の排斥運動」と時期が重なります。

厳しい支配に苦しんだ村人たちが立ち上がった出来事が、後に信仰の物語として語り継がれる中で、堂山大権現の奇跡として形を変えたものと考えられます。

あるいは、明治の政策である「神仏分離令」により、江戸時代には「権現」として祀られていた堂山権現が、「堂山鎮守社」と呼称を改めたことを後世に伝えるために、明治時代に創作された物語である可能性もあります。

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