久万高原町大川ほうじが峠の山中に残る戦国の悲劇 ― 捕虜斬首の地
450年前から残る石塚
久万高原町大川の山中に今も残る戦国の悲劇――それが「ほうじが峠」の伝承です。
北緯33°35′53″ 東経132°54′45″
「ほうじが峠」にまつわる伝承
前年のお盆から今年のお盆までに亡くなった人がある家では、その後三年間、盆月の間、故人を偲ぶために、白い木綿の旗をお寺に持参し、供養の文字を書いてもらうのが習わしでした。
その旗は、庭先に立てた青竹さお(先端部を切って枝葉をさお先に少し残した生の竹)に結びつけ、幟旗(のぼりはた)のように立てられ、日没からは提灯(ちょうちん)を灯して供養しました。
かつての土居家では、新仏がいない年であっても、玄関脇の灯を絶やすことはありませんでした。その理由は、先祖が戦に敗れ、あの山の向こうからこの地に逃れて住み着いたという由来によるものです。
敗走の際、信頼する配下二人が土佐軍勢に捕らわれ、打ち首になる運命となりました。二人は「せめて主の居所の見える地で討ってほしい」と願い、ほうじが峠まで連れて行かれ、その地で斬られたと伝えられています。
今もその場所には石を積んだ墓が残り、かつての土居家では、お盆になると生竹の花立や供物を「おいこ(背負子)」に背負い、墓参りをしていました。
山中のため、雑草や蔓(つる)が絡みついた墓石周りを鎌で刈り払い、きれいに掃除して供え物をして供養していたと伝えられています。
しかし現在では、この風習も途絶え、山中にある墓(石塚)の場所さえ知る人はいなくなりました。

今も石塚が残る峠道
戦国時代、土佐の長宗我部元親軍(ちょうそかべ もとちか)と河野氏の家臣・大野直昌軍(おおの なおしげ)、および大野直昌の家臣であり、小田・本川城主でもあった土居方玄(どい まさつね)らによる笹ヶ峠の戦(大野ヶ原)で、大野軍は敗れ、土居方玄は討死にしました。
戦では、土佐方の戦死者は80名余りに上り、大野方では兵数百と、大野四十八家の城主たち(大野直昌の支城を拠点とした家臣の主力)の過半数が討死しました。
土居一族は戦で敗れ、山中の戦略上の潜伏拠点である大川に逃れ、やがてここに定住しました。
本拠地は隣村の小田の本川城でしたが、戦闘時には山中のこの地が中継拠点や待機場所としての役割を果たしていたと考えられます。
敵の動きを監視したり、補給や逃走ルートとして利用することで、各城と戦場を結ぶ重要な位置にあったのでしょう。
しかし、逃げ遅れた配下二人は、後を追った土佐方に捕らえられ、斬首される運命となりました。
そして、戦国時代の一般的な慣習から、討ち取られた首は戦功の証として持ち去られたと考えられます。
ほうじが峠伝承の解釈ほうじが峠で配下二人が「せめて主の居所の見える場所で討ってほしい」と伝えられる話についてですが、戦国時代の戦術的観点から考えると、土佐方が危険を冒してまで捕虜を敵地陣営の主君の近くまで連行することは、極めて考えにくい状況です。
当時は、捕虜の処刑は戦功を示すためや戦意を削ぐ目的で行われるのが一般的であり、通常は安全な場所で処刑されます。
しかし、捕虜二人は逃れることもできず、厳しい拘束と恐怖にさらされながら運ばれ、最後には命を絶たれるという過酷な運命に置かれていたことに変わりはありません。そのため、この伝承は忠義や悲劇性を強調する象徴的な表現として、後世に伝えられた可能性が高いと考えられます。
また、捕虜が峠まで連れて行かれた理由としては、土佐方が土居一族や大野直昌軍勢の隠れアジトや行動を確認する意図があった可能性も否定できません。

五衛門と嘉衛門の墓(新調された石塚)

斬首された土居氏の配下、五衛門と嘉衛門の歴史的経緯を簡潔に伝えています。
万葉集の碑
山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴
やまぶきの たちよそひたる やましみづ くみにゆかめど みちのしらなく
山吹の花に彩られた清水に水くみに行きたいが道が分からない

平成二十二年八月 建立 万葉集巻二の一五八
当ブログ執筆者は縁あって、かつて記念碑建立者の依頼により、供養道具を運ぶための木製の「おいこ」を製作しました。